家族で成長しあえた2年間2006年09月25日
Category: 親の声
投稿:夢見るハイジ/
我家に嵐が吹いたのは、丁度今から2年前。夏の終わり、秋の初めのちょっとうら悲しいこの季節だった。風のにおいや秋晴れの空、稲穂の色づきや、虫の声、それらすべてのものが、私にあの頃をよみがえらせる。もうとっくに癒えたはずの、心の引き出しにそっとしまったはずの苦い経験が、今でもたまに顔を出す。
【始まりは高校入学前に、そして夏休み】
始まりはいくつかの不運の重なりだった。高校の入学式の前日に、娘に病気が見つかった。体調も悪く、精神的にも不安定でアンバランスな状態が続いた。運動もドクターストップがかかるようになり、学校へ行くこともやっとで、母親の私にとっては、とても不安なスタートに見えた。入学後間もなく、娘はボーイフレンドができたようで、キラキラと輝いていたのが続いたが、しばらくして失恋。傷心のまま、なかなかその現実を受け止められず悩み苦しんでいた。そのことでクラスの仲良しグループの友人たちに誤解され、教室の中の居場所を失ってしまい、元気を保てないまま間もなく夏休みに入った。そういえば、夏休み前から娘は帰りが遅くなり、私と夫は交替で、娘を迎えに行った。駅で友だちと話していてなかなか帰らない時もあり、心配で様子を見に行ったりといつも娘のことが気がかりだった。そんな娘と家ではケンカが絶えなかった。
お盆の頃から、お祭りや花火を見に行くと言って、近所の友だちや駅で知り合った友人たち数人で、夜外出するようになった。夜中に家から抜け出し、早朝帰ってくることもあり、私は安心して夜眠ることができなかった。そして忘れもしない、2学期の始業式を目前に控えたある日、娘は2日間家に帰らなかった。携帯電話に連絡しても返事がなく、居場所が判らなかった。かーっと頭に来たり、おろおろ心配したり、捜し回ったり、やれることはやり尽くした結果、ただ帰りを待つだけであった。近所の友だちを含む仲間数人といるということだけはわかっていた。結局、夏休み最後の日の夜、近所の友だちの両親に送られて、娘はしぶしぶ家に帰ってきた。3日振りに顔を合わせた娘の様子は別人のようで、近寄りがたく、親を寄せ付けない感じだった。私たちは聞きたいことや、言いたいことは山ほどあったが、送ってくれた知人の忠告通り、その夜はそっとしておいた。ただ無事で帰ってきてくれたことだけが救いだった。
【不登校が始まった】
翌朝、娘の部屋に行くと、娘は死んだように眠っていて、声をかけても全く反応しなかった。相当疲れていて、ほとんど寝ていなかったらしい。仕方なく私は、学校に欠席の連絡をした。ゆっくり休ませるしかないと思った。そして、その翌日はなんとか学校へ行ったのだが、翌々日から娘の不登校が始まった。考えてみれば、棚上げした問題がまだ未解決だったのだ。すっと後になってわかったのだが、娘は自分の居場所を学校の仲間に求められず、それぞれに悩みを抱えながらも、ありのままの自分でいられる「駅」の仲間たちに求めたのだった。残念なことに私たち夫婦も、その時点では、娘の救いになれなかった。
それまでの娘は学校が大好きで、長い休みの時には、「早く学校行きてぇ〜。うちにいるとつまんねぇ〜。」と、よく叫んでいた。我が家は、私たち夫婦と娘だけの家族で、兄弟のいない娘は、私たちのことを「二人ともまじめすぎるんだよねぇ」とよく愚痴をこぼすことがあった。とにかくそんな風に娘は学校大好き、友だち大好きで、学校に行けなくなったり、夜遊びするようになるなんて、夫も私も青天の霹靂(へきれき)だった。なにがなんだかわからなかった。
「わたしだって学校行きたいよぉ〜。でも行けないんだよ〜。どうしていいかわからないんだよ〜。」とベッドの上で泣き叫ぶ娘を見た時、私は娘がとてもいとおしくなった。私が20才の頃、ストレスで看護学校に行けなくなった自分と重なった。困ったことになったが、娘は今学校に行けないんだという事実だけを冷静に受け止めるようにした。娘にとって何か大変な事が起きているんだということだけは、キャッチできた。
担任の先生から電話をもらうと、なんと伝えていいのか戸惑ったが、「娘はしばらく学校へ行けないと思います。毎日休みの連絡はしませんが、行けそうになったら又ご連絡します。」と伝えた時、初めて娘の不登校を自分が受け止める覚悟ができた。とにかく、ゆっくり娘と向き合っていこうと決めた。
とは言っても、学校は行けない、夕方になると出掛け、夜遅く帰ってくる娘の扱いに、夫婦揃って途方に暮れていた。ただ、「なんとかしなくては」という思いだけだった。その頃の私は、スクールカウンセラーの先生に会ったり、個人的にカウンセリングを受けたり、20年近くも会っていない学生時代の友人に話を聞いてもらいに遠方まで出掛けたり、似たような経験を持つ親戚の人に電話をかけたり、本を読んだりとありとあらゆる手を尽くした。そして、その中から聞こえてきた声は、娘のありのままを受け止めてあげるということだけだった。
娘の昼夜逆転の生活に寄り添っていた私は、夜はほとんど熟睡できず、かなり疲れきっていた。娘が家にいる昼だけが一時の安心で、日中はゆっくりしていた。娘と朝食とも昼食ともつかない食事をいっしょにとったり、娘の見たいテレビをいっしょに見たりして、結構楽しかった。娘も嬉しそうで、疲れている私に何か簡単な料理を作ってくれたりして、優しく、あったかくて、逆に私が励まされたりもした。考えてみると、こんな風に親子で寄り添ったことは、いつ以来だっただろうか。こんな簡単でささやかなしあわせさえ、私はいつのまにか忘れてしまっていたのかもしれない。日々の忙しい生活の中で・・・。
娘は今、こうやってゆっくりしていたいんだなぁと感じることができた。少しずつ娘との距離が戻っていった。
それまでの私たちの関わり方は、娘の為と言いながら、勝手な親の言い分や価値観を押し付け、最後のところで娘に我慢させていた事が多かった。娘の言い分を聞きながらも、決定権は私が握っていて、許可をだしていた。娘の気持ちに寄り添えず、実際は娘が私たちの思いに寄り添ってくれていたのかもしれない。振り返ると、私は未熟で傲慢な母親だった。娘の辛かった気持ちや、今まで置き去りにしてきてしまった思いを、今こそひとつひとつ丁寧にすくい上げ、受け止めていきたいと思った。条件なしで子どもの全部を丸ごと認め、本当の愛を示せる母親になる時なんだ。そして、そのチャンスを娘が与えてくれたんだと悟った。
私が最後にたどり着いたのは、娘が生きてくれればいいということだった。大好きな娘が、元気であの子らしく、楽しく生きていければいいと思った。学校へ行けなくても、夜遊びをしていても、とにかく生きてさえいてくれればいいと思った。
私が出来ることは、娘にとってもっと居心地のいい家にすることだと思った。帰りたくなる家、あったかくて、ホッとできる家にしようと思った。困った時、本音が言えたり愚痴をこぼせたりできる家にしよう。ただ黙って娘の話を聞いてやれる自分になろう。それが私の役割だと思った。
娘が遅く帰る理由はもうひとつあった。家が怖くて帰れない友だちを置いては帰れないというのだ。最初、私たち夫婦は困惑したが、友だちを思う娘の気持ちに寄り添い、娘が連れてきた友だちを何回か泊めてあげた。夜中に、慌てて布団を出したり、夜食を買いに行ったり、翌朝には朝食を食べさせ、高校へ行くのを見送ったり・・・。我が子が不登校で、よその子の登校を家から見送るなんて不思議だった。ひとりひとりに向きあうと、みんなかわいくて素直な子どもたちだった。寒い外から来た子どもたちは、「あったけ〜。ここは天国だぁ〜」と冗談を言う子もいた。いつしか、娘を守るなら、娘の友だちも守っていかなければという大きな広い心に私は変わっていった。
そんなことがあってから、娘は私を頼りにするようになり、私に心を開いてくれた。結果として、娘の気持ちや行動がよくわかるようになり、「なんとかなるかもしれない」という希望が湧いてきた。娘の声や表情も明るくなってきた。娘は自分のことをすべて受け入れて欲しいと甘える幼子のようだった。15才だけど、幼い心を抱えたこの子を、今私の精一杯で、受け止めてあげようと思った。それが私がやり残した子育てだと気づいた。
【突然の登校再開と再度不登校の生活】
学校を休んで、1ヵ月半が経った頃、突然「来週から学校へ行けるかも!」と言い出した。クラスメートのメールや電話に励まされ、自分の居場所を取り戻せると感じたようだった。もう学校へは戻れないかもしれないと、半ばあきらめていた私たちは、娘の早い展開に驚いた。希望の光が見えた。娘をずっと励まし支えてくれたクラスの仲間に感謝した。すべてのものに感謝した。
この一件があってから、娘は人の目が怖いと電車に乗れなくなっていた。私の送り迎えの毎日が始まった。娘はそれから1ヶ月、なんとか学校へ通ったが、また行けなくなってしまった。後になって、娘が言うのには、長い間勉強をしていなくて、全く授業についていけなかったのと、昼夜逆転のような生活に体が慣れてしまっていて、朝起きるのがつらく、学校の生活に適応できずに疲れてしまったらしい。そうしてまた元の生活にもどった。
けれど、前とは少し様子が違った。しばらくしてから、本人の希望で近くのお店でアルバイトをすることになった。スクールカウンセラーの先生からも、意欲を大事にしましょうと賛成してもらった。学校にもどれないなら、働くという選択肢もあると思った。どんな時も希望を捨てないようにしていた。だって娘はこんなに元気になれたんだから・・・。結局、アルバイトは1ヶ月しか続かなかった。遊びと両立できなかったらしい。娘はこの生まれて初めてのアルバイトの経験から、仕事は将来いつでもできることと、学校で勉強したり、友だちと過ごしたりする時間の方が、今の自分にとっては楽しいし、意味がある事だと学んだようだった。そして、再び学校へもどっていった。12月初めの16才の誕生日が目前に迫っていた。
学校からは、欠課数のオーバーで進級できるかギリギリだと告げられた。娘はクラスメートと進級するんだというひとつの目標を持ち、休まないように、遅刻しないように、頑張って通った。勉強は得意ではなかったけれど、2回受けていなかった定期テストを挽回しようと、3学期は必死に勉強した。とりわけ、テストの点が低かった教科は親子で勉強し、なんとか成績だけはクリアーした。けれど、欠課数の壁は越えられず、結局留年ということになってしまった。我家は皆で春の進級を信じて疑わなかったので、本当にがっかりして意気消沈した。大勢の友だちや先生たちに励まされ、ここまで来たのにと悔しくもあった。でも悔しさをぶつけるところはどこにもなく、ただ留年という事実だけを受け止めた。私はその頃、しばらく体の力が抜け、それまでの疲れもあり、体調が戻るのに数ヶ月かかった。気がついてみれば、高校に入学してからずっと心配と悩みの連続だった。気力だけで生きてきた。自分に無理をしてきたんだなぁと、つくづく思った。
【留年と再びの学校生活】
娘は留年することを自分で選び、2度目の一年生を別の先生やクラスと過ごし、今年春には念願の進級を果たし、今は2年生となって元気に通っている。まだ遅刻するし、欠課も多い。つまずいたり、悩みだってある。でもあれから娘は、自分なりの力の抜き方や、親の小言のかわし方を身につけ、自分が大好きなあの学校で学び、必ず仲間と卒業するんだという強い信念を持っている。他の学校から留年してきた友だちと励ましあったり、支えあったりして、頼もしい娘に成長した。
私は相変わらず車で娘を送り、毎日車の中で娘との貴重な時間を過ごしている。夫は愛情たっぷりのお弁当を、毎日娘のために手作りしてくれている。あれから私たち夫婦が変わった所は、何かあっても娘を信じて待てるようになった所だ。娘の話を聞いてから判断するようになった。今では親子で問題に向き合い、娘の気持ちを尊重できるようになってきた。価値観だって広がってきた。前より、3人の関係がずっと良くなり、娘が私と夫を励まし、私が娘と夫を支え、夫が娘と私を守ってくれる。トライアングルのようなバランスのいい関係になれた。一人はみんなの為に、みんなは一人の為にという理想の関係になってきた。
【自分を生きている】
私はこの体験から、多くの事を学んだ。地獄のような数ヶ月も、私たち親子にとってはかけがえのない、なくてはならない必要な時間だった。私が本気で娘と向き合えたのは初めてだったかもしれない。そしてそれは結果として、私が夫や自分自身と向きあう作業でもあった。自分が思っている以上に、私は娘のことが大好きで、この家族を愛しているんだという、とてもシンプルなことに気がつくこともできた。家族で食事をしたり、お風呂に入ったり、布団に寝たりという平凡で当たり前の生活がどんなにありがたく、しあわせな事であるかということもわかった。
すべては娘のつまずきから始まった。でもだからこそ、いろいろなことに気づけた。つまずきや問題は恐れるものではなく、そこに向き合って、そこから学び、それを乗り越えていくものなんだと知った。そして、乗り越えた先には成長があった。私たち家族はこの2年間、いろいろな人との関わりを通して、ひとりひとり成長してきたんだと思う。今私は、しあわせは自分の中に、この家族の中に既にあるんだと実感している。そう気づかせてくれた娘に感謝である。同時に未熟な私を支え続けている夫に感謝したい。そして、私をとりまくすべてのものに感謝している。
今日も娘は、元気いっぱいに自分を生きている。たくさんの愛に囲まれて、娘は今年18才になる。そして私は、夢見る少女のように自分の夢を描くことに生きる喜びを感じている。生きているって素晴らしいネ!
我家に嵐が吹いたのは、丁度今から2年前。夏の終わり、秋の初めのちょっとうら悲しいこの季節だった。風のにおいや秋晴れの空、稲穂の色づきや、虫の声、それらすべてのものが、私にあの頃をよみがえらせる。もうとっくに癒えたはずの、心の引き出しにそっとしまったはずの苦い経験が、今でもたまに顔を出す。
【始まりは高校入学前に、そして夏休み】
始まりはいくつかの不運の重なりだった。高校の入学式の前日に、娘に病気が見つかった。体調も悪く、精神的にも不安定でアンバランスな状態が続いた。運動もドクターストップがかかるようになり、学校へ行くこともやっとで、母親の私にとっては、とても不安なスタートに見えた。入学後間もなく、娘はボーイフレンドができたようで、キラキラと輝いていたのが続いたが、しばらくして失恋。傷心のまま、なかなかその現実を受け止められず悩み苦しんでいた。そのことでクラスの仲良しグループの友人たちに誤解され、教室の中の居場所を失ってしまい、元気を保てないまま間もなく夏休みに入った。そういえば、夏休み前から娘は帰りが遅くなり、私と夫は交替で、娘を迎えに行った。駅で友だちと話していてなかなか帰らない時もあり、心配で様子を見に行ったりといつも娘のことが気がかりだった。そんな娘と家ではケンカが絶えなかった。
お盆の頃から、お祭りや花火を見に行くと言って、近所の友だちや駅で知り合った友人たち数人で、夜外出するようになった。夜中に家から抜け出し、早朝帰ってくることもあり、私は安心して夜眠ることができなかった。そして忘れもしない、2学期の始業式を目前に控えたある日、娘は2日間家に帰らなかった。携帯電話に連絡しても返事がなく、居場所が判らなかった。かーっと頭に来たり、おろおろ心配したり、捜し回ったり、やれることはやり尽くした結果、ただ帰りを待つだけであった。近所の友だちを含む仲間数人といるということだけはわかっていた。結局、夏休み最後の日の夜、近所の友だちの両親に送られて、娘はしぶしぶ家に帰ってきた。3日振りに顔を合わせた娘の様子は別人のようで、近寄りがたく、親を寄せ付けない感じだった。私たちは聞きたいことや、言いたいことは山ほどあったが、送ってくれた知人の忠告通り、その夜はそっとしておいた。ただ無事で帰ってきてくれたことだけが救いだった。
【不登校が始まった】
翌朝、娘の部屋に行くと、娘は死んだように眠っていて、声をかけても全く反応しなかった。相当疲れていて、ほとんど寝ていなかったらしい。仕方なく私は、学校に欠席の連絡をした。ゆっくり休ませるしかないと思った。そして、その翌日はなんとか学校へ行ったのだが、翌々日から娘の不登校が始まった。考えてみれば、棚上げした問題がまだ未解決だったのだ。すっと後になってわかったのだが、娘は自分の居場所を学校の仲間に求められず、それぞれに悩みを抱えながらも、ありのままの自分でいられる「駅」の仲間たちに求めたのだった。残念なことに私たち夫婦も、その時点では、娘の救いになれなかった。
それまでの娘は学校が大好きで、長い休みの時には、「早く学校行きてぇ〜。うちにいるとつまんねぇ〜。」と、よく叫んでいた。我が家は、私たち夫婦と娘だけの家族で、兄弟のいない娘は、私たちのことを「二人ともまじめすぎるんだよねぇ」とよく愚痴をこぼすことがあった。とにかくそんな風に娘は学校大好き、友だち大好きで、学校に行けなくなったり、夜遊びするようになるなんて、夫も私も青天の霹靂(へきれき)だった。なにがなんだかわからなかった。
「わたしだって学校行きたいよぉ〜。でも行けないんだよ〜。どうしていいかわからないんだよ〜。」とベッドの上で泣き叫ぶ娘を見た時、私は娘がとてもいとおしくなった。私が20才の頃、ストレスで看護学校に行けなくなった自分と重なった。困ったことになったが、娘は今学校に行けないんだという事実だけを冷静に受け止めるようにした。娘にとって何か大変な事が起きているんだということだけは、キャッチできた。
担任の先生から電話をもらうと、なんと伝えていいのか戸惑ったが、「娘はしばらく学校へ行けないと思います。毎日休みの連絡はしませんが、行けそうになったら又ご連絡します。」と伝えた時、初めて娘の不登校を自分が受け止める覚悟ができた。とにかく、ゆっくり娘と向き合っていこうと決めた。
とは言っても、学校は行けない、夕方になると出掛け、夜遅く帰ってくる娘の扱いに、夫婦揃って途方に暮れていた。ただ、「なんとかしなくては」という思いだけだった。その頃の私は、スクールカウンセラーの先生に会ったり、個人的にカウンセリングを受けたり、20年近くも会っていない学生時代の友人に話を聞いてもらいに遠方まで出掛けたり、似たような経験を持つ親戚の人に電話をかけたり、本を読んだりとありとあらゆる手を尽くした。そして、その中から聞こえてきた声は、娘のありのままを受け止めてあげるということだけだった。
娘の昼夜逆転の生活に寄り添っていた私は、夜はほとんど熟睡できず、かなり疲れきっていた。娘が家にいる昼だけが一時の安心で、日中はゆっくりしていた。娘と朝食とも昼食ともつかない食事をいっしょにとったり、娘の見たいテレビをいっしょに見たりして、結構楽しかった。娘も嬉しそうで、疲れている私に何か簡単な料理を作ってくれたりして、優しく、あったかくて、逆に私が励まされたりもした。考えてみると、こんな風に親子で寄り添ったことは、いつ以来だっただろうか。こんな簡単でささやかなしあわせさえ、私はいつのまにか忘れてしまっていたのかもしれない。日々の忙しい生活の中で・・・。
娘は今、こうやってゆっくりしていたいんだなぁと感じることができた。少しずつ娘との距離が戻っていった。
それまでの私たちの関わり方は、娘の為と言いながら、勝手な親の言い分や価値観を押し付け、最後のところで娘に我慢させていた事が多かった。娘の言い分を聞きながらも、決定権は私が握っていて、許可をだしていた。娘の気持ちに寄り添えず、実際は娘が私たちの思いに寄り添ってくれていたのかもしれない。振り返ると、私は未熟で傲慢な母親だった。娘の辛かった気持ちや、今まで置き去りにしてきてしまった思いを、今こそひとつひとつ丁寧にすくい上げ、受け止めていきたいと思った。条件なしで子どもの全部を丸ごと認め、本当の愛を示せる母親になる時なんだ。そして、そのチャンスを娘が与えてくれたんだと悟った。
私が最後にたどり着いたのは、娘が生きてくれればいいということだった。大好きな娘が、元気であの子らしく、楽しく生きていければいいと思った。学校へ行けなくても、夜遊びをしていても、とにかく生きてさえいてくれればいいと思った。
私が出来ることは、娘にとってもっと居心地のいい家にすることだと思った。帰りたくなる家、あったかくて、ホッとできる家にしようと思った。困った時、本音が言えたり愚痴をこぼせたりできる家にしよう。ただ黙って娘の話を聞いてやれる自分になろう。それが私の役割だと思った。
娘が遅く帰る理由はもうひとつあった。家が怖くて帰れない友だちを置いては帰れないというのだ。最初、私たち夫婦は困惑したが、友だちを思う娘の気持ちに寄り添い、娘が連れてきた友だちを何回か泊めてあげた。夜中に、慌てて布団を出したり、夜食を買いに行ったり、翌朝には朝食を食べさせ、高校へ行くのを見送ったり・・・。我が子が不登校で、よその子の登校を家から見送るなんて不思議だった。ひとりひとりに向きあうと、みんなかわいくて素直な子どもたちだった。寒い外から来た子どもたちは、「あったけ〜。ここは天国だぁ〜」と冗談を言う子もいた。いつしか、娘を守るなら、娘の友だちも守っていかなければという大きな広い心に私は変わっていった。
そんなことがあってから、娘は私を頼りにするようになり、私に心を開いてくれた。結果として、娘の気持ちや行動がよくわかるようになり、「なんとかなるかもしれない」という希望が湧いてきた。娘の声や表情も明るくなってきた。娘は自分のことをすべて受け入れて欲しいと甘える幼子のようだった。15才だけど、幼い心を抱えたこの子を、今私の精一杯で、受け止めてあげようと思った。それが私がやり残した子育てだと気づいた。
【突然の登校再開と再度不登校の生活】
学校を休んで、1ヵ月半が経った頃、突然「来週から学校へ行けるかも!」と言い出した。クラスメートのメールや電話に励まされ、自分の居場所を取り戻せると感じたようだった。もう学校へは戻れないかもしれないと、半ばあきらめていた私たちは、娘の早い展開に驚いた。希望の光が見えた。娘をずっと励まし支えてくれたクラスの仲間に感謝した。すべてのものに感謝した。
この一件があってから、娘は人の目が怖いと電車に乗れなくなっていた。私の送り迎えの毎日が始まった。娘はそれから1ヶ月、なんとか学校へ通ったが、また行けなくなってしまった。後になって、娘が言うのには、長い間勉強をしていなくて、全く授業についていけなかったのと、昼夜逆転のような生活に体が慣れてしまっていて、朝起きるのがつらく、学校の生活に適応できずに疲れてしまったらしい。そうしてまた元の生活にもどった。
けれど、前とは少し様子が違った。しばらくしてから、本人の希望で近くのお店でアルバイトをすることになった。スクールカウンセラーの先生からも、意欲を大事にしましょうと賛成してもらった。学校にもどれないなら、働くという選択肢もあると思った。どんな時も希望を捨てないようにしていた。だって娘はこんなに元気になれたんだから・・・。結局、アルバイトは1ヶ月しか続かなかった。遊びと両立できなかったらしい。娘はこの生まれて初めてのアルバイトの経験から、仕事は将来いつでもできることと、学校で勉強したり、友だちと過ごしたりする時間の方が、今の自分にとっては楽しいし、意味がある事だと学んだようだった。そして、再び学校へもどっていった。12月初めの16才の誕生日が目前に迫っていた。
学校からは、欠課数のオーバーで進級できるかギリギリだと告げられた。娘はクラスメートと進級するんだというひとつの目標を持ち、休まないように、遅刻しないように、頑張って通った。勉強は得意ではなかったけれど、2回受けていなかった定期テストを挽回しようと、3学期は必死に勉強した。とりわけ、テストの点が低かった教科は親子で勉強し、なんとか成績だけはクリアーした。けれど、欠課数の壁は越えられず、結局留年ということになってしまった。我家は皆で春の進級を信じて疑わなかったので、本当にがっかりして意気消沈した。大勢の友だちや先生たちに励まされ、ここまで来たのにと悔しくもあった。でも悔しさをぶつけるところはどこにもなく、ただ留年という事実だけを受け止めた。私はその頃、しばらく体の力が抜け、それまでの疲れもあり、体調が戻るのに数ヶ月かかった。気がついてみれば、高校に入学してからずっと心配と悩みの連続だった。気力だけで生きてきた。自分に無理をしてきたんだなぁと、つくづく思った。
【留年と再びの学校生活】
娘は留年することを自分で選び、2度目の一年生を別の先生やクラスと過ごし、今年春には念願の進級を果たし、今は2年生となって元気に通っている。まだ遅刻するし、欠課も多い。つまずいたり、悩みだってある。でもあれから娘は、自分なりの力の抜き方や、親の小言のかわし方を身につけ、自分が大好きなあの学校で学び、必ず仲間と卒業するんだという強い信念を持っている。他の学校から留年してきた友だちと励ましあったり、支えあったりして、頼もしい娘に成長した。
私は相変わらず車で娘を送り、毎日車の中で娘との貴重な時間を過ごしている。夫は愛情たっぷりのお弁当を、毎日娘のために手作りしてくれている。あれから私たち夫婦が変わった所は、何かあっても娘を信じて待てるようになった所だ。娘の話を聞いてから判断するようになった。今では親子で問題に向き合い、娘の気持ちを尊重できるようになってきた。価値観だって広がってきた。前より、3人の関係がずっと良くなり、娘が私と夫を励まし、私が娘と夫を支え、夫が娘と私を守ってくれる。トライアングルのようなバランスのいい関係になれた。一人はみんなの為に、みんなは一人の為にという理想の関係になってきた。
【自分を生きている】
私はこの体験から、多くの事を学んだ。地獄のような数ヶ月も、私たち親子にとってはかけがえのない、なくてはならない必要な時間だった。私が本気で娘と向き合えたのは初めてだったかもしれない。そしてそれは結果として、私が夫や自分自身と向きあう作業でもあった。自分が思っている以上に、私は娘のことが大好きで、この家族を愛しているんだという、とてもシンプルなことに気がつくこともできた。家族で食事をしたり、お風呂に入ったり、布団に寝たりという平凡で当たり前の生活がどんなにありがたく、しあわせな事であるかということもわかった。
すべては娘のつまずきから始まった。でもだからこそ、いろいろなことに気づけた。つまずきや問題は恐れるものではなく、そこに向き合って、そこから学び、それを乗り越えていくものなんだと知った。そして、乗り越えた先には成長があった。私たち家族はこの2年間、いろいろな人との関わりを通して、ひとりひとり成長してきたんだと思う。今私は、しあわせは自分の中に、この家族の中に既にあるんだと実感している。そう気づかせてくれた娘に感謝である。同時に未熟な私を支え続けている夫に感謝したい。そして、私をとりまくすべてのものに感謝している。
今日も娘は、元気いっぱいに自分を生きている。たくさんの愛に囲まれて、娘は今年18才になる。そして私は、夢見る少女のように自分の夢を描くことに生きる喜びを感じている。生きているって素晴らしいネ!
次の記事:人生
前の記事:Be smile,be happy
Back to top

