投稿:TFさん/

 一人っ子の長男が不登校を始めたのは中一の2学期の初めからだった。その後卒業まで殆ど学校には行かなかった。不登校に理解のある塾と出会い、そこへはずっと行き続けた。勉強はしたいのだと言っていた。

高校への進学は3年次の担当の先生より二つの学校を紹介され、内一つに絞って体験入学からそこに決めた。主に不登校経験者を受け入れている愛知県にある全寮制の普通科高校。息子は今3年生で、ほぼ遠方の四大への進学を決めている。生気をなくしていた中学時代がうそのように、生き生きと今を生きている息子の姿を見るにつけ、本当に多くの方々の目に見えない力の働きのお陰と、感謝の気持ちでいっぱいになる。
 
 何が問題で何が子供を元気ならしめたのかを思うと事は重層的で簡単に語れるものではないが、この経過の中で私が学んだことを整理する意味でも、又それを分かち合うことで何がしかお返しをしたいという思いもあって原稿をお受けした次第である。
 いつの時も子供の中には自分を保ち成長しようとする力があったし、私も妻もそれを信頼し続けてきた。勿論ときにその信頼が揺らぎ尊重を損なうことがあり、子供を傷つけることも多かった。つまりそれはいつも親側の問題だった。在るものは在り、見る(見ない)側の問題であることは明確だった。子供はいろいろな形でそのことを私たちに伝えてきた。人間は一体に信頼されれば信頼に応えるものであろう。親が自分自身に対する不安や不全感を解決していなければ、その親自身の思いを子供に投影し子供を咎める間違いを犯す。子供はその親の念に応じた自己像を自分の中に形成してしまう。親が自分を整える必要の所以である。親の要求が不条理であるとき、息子は怒りと共に訴えてきたし、語る言葉の中に輝くような智恵が含まれていることを感じているときには私は自分を恥じ、返す言葉を失うこともあった。子供から直接的に教えられていることを味わう瞬間でもあった。子供の愛に親が助けられることが多かった。そのひとつひとつをここで上げる紙面の余裕はないが、私の中に深く刻まれている。
 
 息子が小学6年生になる頃、私はそれまで勤めていた都会の会社を辞め、独立することを考え始めていた。10年間働いていたその会社での勤務は帰宅がいつも10時を回っていたし、宿直もある不規則な生活だった。不満は多かったがそれが引き金になったわけではなく、家族との時間をもっと持ちたかったし、何より自分の成長(会社依存からの離脱)のきっかけを作りたい気持ちが強かった。かなり強引に辞め、経済的な不安を抱えての地方都市での単身生活に踏み切ったのだった。しかし、その強引さと家族との別居生活が妻と私との間に大きな溝を作ることになった。感情的に反応することが多くなり、私は離婚を考えるまでに至っていた。この頃はとにかく自分のことで頭がいっぱいで、自分を優先して事を運んでいた。離婚の危機を息子は自分を犠牲にして回避しようとしてくれた。即ち、大切な友人関係、住み慣れた土地を捨てて、私と共に生活しようと申し出たのだった。妻が泣きながら私を引きとめようと叩いた時、息子はその間に立って、やはり泣きながら先の申し出を全身でしてくれたのだった。妻にも「父さんと一緒に行こう」と説得して。息子と妻と私の為に払った犠牲の大きさを思う時、私は二度とそのような悲しみを味わわせまいと決心している。
 
 息子の小学校卒業を待って、私たち家族は長野県に転居した。来客ある仕事場(狭いマンション)に家族は1ヶ月いったん身を置き、新たに見つけた一軒家も仕事場兼用であり、この時期妻や子供に休まる場所はなかったと思われる。中学校ではすべて地元の子供たちで、県外出身者は私の子供だけであり、新入生とはいえ息子は転校生と同じ立場であった。息子の拒否感は体調不良という形ですぐに表面化した。都会とは違い田園と山岳の広がる風景、素朴な様子の子供たち、味覚の違う給食、どこへ行くにも車を頼まなければならない状況(必要な場所は自転車にも徒歩にも距離がありすぎた)、本やゲームの種類の違いや少なさ。息子は様々な不満を口にした。私は息子にとってのその大きさを思いやることはできず、「何でそんな程度のことを」と取り合わなかった。私自身の自責や不甲斐なさを味わいたくなかったのだ。また恐らくは父親の仕事は大丈夫なのか?経済は?母親の不安げな様子は大丈夫なのか?両親はもう別かれずにいてくれるのか?なども気持ちの奥に持っていたに違いない。随分後になって息子は妻に、父親が離婚を考えたのは自分(息子)の責任であり、本当は長野に来たくなかったのだが、それを言えば父親を傷つけ、夫婦がまた苦しむだろうことを思って言わなかったのだと洩らしている。言える時を息子は持ち続けていたのだった。世界的に著名な精神科E・キューブラー・ロスはその講演集の中で「本当にごまかしのない心を持っているのは子供と死を前にしている人と精神を患っている人だけである」と述べている。私の息子は押しつぶされそうな極限の精神状態の中で愛に生きていたのだと思う。それが子供が子ども自身を救っていた大きな力だったのだと今思える。妻は、中学時代の息子は本当に死ぬかもしれないと感じていたという。大切なものを失う悲しみ(死)の中にいた子供の心を私は全く理解していなかったのだ。私が口にすることと言えば「学校へ行け」「飯は食ったか?」「ゲームばかりするな」「運動をしろ」ということばかりで、実は自分ながらにそれしか出てこない自分の貧しさに途方に暮れていたのである。
 
 不登校に入ってすぐ、息子は一人暮らしの祖母の下へ旅立った。夫婦はカウンセリングを受け、夫婦としての対話を進めた。親の内面が落ち着かなければ、子供が自分の時間を自分のために使えないことを掴めてきたのであった。相談した臨床心理士に「子供さんは大丈夫です。夫婦がよく話をしてください」と教えられ、また学校登山で子供のプライドがかなり傷ついたであろうことも示唆された。ひと月足らずの祖母との二人生活で息子は静かに自分でいる時間を持てたようであった。親は少しずつ不登校を受け入れ始めていた。むしろ子供にとってどうしても必要な時間なのだろうと。これも後に「あの時期自分の青春は小学で終わったと思っていた。だからこれからどうするかを含めて本当にあらゆることを考えていた」と語ってくれたことがある。難病などで死と向き合っている子供たちが老成する話しは聞いていたが、そこまでではないにしろ、子供の中で思考が深化していることは折に触れて感ずるところがあった。高校は、地元の普通の高校に入ることは、本人は勿論両親も望ましくないと考えた。息子のプロセス、リズムを尊重してくれそうなところでない限り、子供がだめになることは明らかだった。
 
 全寮制のその高校で、息子は見る見る変化していった。少ないながら群れる友人を作り、信頼できる大人を教師の中に見出し、本を読むようになり、将来を見据えて今やれることをやり始めた。自分への自信を取り戻し、自分を保つようになってきた。それはほぼ1ヶ月単位の明確な変化だった。学校・寮生活での多くの問題の中にあって経験していることを実感的に言語化し、よく語るようになった。苦しいこともそれを経験していること自体が嬉しいようであった。人への感謝を口にし、時に攻撃的になりもするが、人の間違いも許した。恋をし、その関わりにも努力している。人との距離感を色々な人間関係の中で学んでいるように見える。親が耳にする学校内での問題を訊ねると「自分次第だから」と答え、影響されることから自分を守っている。そして「俺はよく考えてきた」と言う。何が正しくて何が間違っているかを子供なりに見据えていることが伝わってくる。友達のことを話すとき、その友達自身の責任性を外さずに、しかし「親の問題なんだよ」と言う。「今がこれまでの人生の中で一番楽しい」とも口にする。あれほど長野を嫌っていた息子がこの地の自然を味わっているときがある。卒業の別れを惜しんで、今を生きている息子のことが嬉しいし、今までいくつもの別れ(終わり)を通ったから本当に大きなものを学んだのだと勝手に解釈している。両親に対してもそれまでしまっていた不安や否定面も率直に語るようになった。自分への自信と親への信頼が伺われ、ストレートに響いてくる。

 妻は口癖のように「かわいい子には旅をさせろ・・か」と洩らす。か、というところがいかにも自分に言っている感じがあって私は微笑んでしまう。その言葉通り、この間妻は母性を大切に育みながらも、子供に自分の思いを向けすぎないようにと心がけているようだった。自分自身の喪失のプロセスを歩み、家を整え、食事に気を込めた。息子と父親(私)の二人だけの時間を持たせようと学校への送迎などに同乗しないようにしていた。この片道4時間の道のりの中で何度私と息子との間で大切な会話がなされたことだろうか。私の仕事が順調に進んだのも二人のお陰が大きい。自分を振り返る機会が与えられ、その学びが仕事に生かされる場面が多くあった。
 よく言われることだが、危機はチャンスである。必要があって膿が出てくる。それを受け入れると自然と頭が垂れてくる。今日一日精一杯生きようという気持ちになる。息子が身を挺して渡してくれたこの恵みを大切にするつもりである。