投稿:K.B.さん/

 このところ、十代半ばの少年による何とも痛ましい事件が頻発しています。複雑な事情があるのでしょうが、私は彼らが後戻りできないところまで自分を追い込んでいく途中で、自己発散することができなかった状況を哀れに思います。

なぜなら、息子は不登校という行動で自己発散ができたおかげで、大事に至らず立ち直る力を得ることができましたし、私はそのおかげで本物の母親にしてもらえたと思っているからです。
 息子が完全に学校へ行かなくなったのは、7年前、中学2年の夏休み明けからでした。決定的な原因があったというのではなく、それまでの人生の間に蓄積されてきたいろいろがどろどろに溶け合って、心身共に窒息状態だったのだろうと、今、振り返って思います。ただ、息子が自分は登校拒否であって不登校ではないと主張し続けたことから、それなりの理由があったのかもしれないとも思います。いずれにしても当時その事に気が付いていれば、不登校を一つの選択肢と前向きに考えて、貴重な時を有効に活用できたかもしれませんし、少なくともあの日から数ヶ月に及んだ壮絶な親子バトルは避けられたに違いないと、知識が不足していた事を残念に思います。
 それにしても、わずか十数年の人生の間に何が息子の心の中に蓄積して行ったのでしょうか。私の経験の中から、現在不登校の渦中にあるご家庭の皆様が少しでも参考になりそうなことを見出していただければ、幸いに思います。
 息子は、私が39歳の時、長男とは13離れた三男一女の末っ子として誕生しました。
 常に目線を上に向けて生活しなければなりませんでしたから、周囲の反応を敏感にキャッチする繊細さと少し背伸びする傾向を持った感受性の強い子に育ちました。主人は仕事一筋人間で、家庭内の事は妻の役目と割り切っていましたし、扶養者としての自分への絶対服従は当然という言動を時々ちらつかせましたから、主人の意に添わない事は何も言えない雰囲気の家庭でした。私も、母親役しかできないと思いながら言い出せないまま子育てに奔走していました。幼い頃から、兄姉達の必要に合わせて息子はよく私に連れ回されましたし、新居の建築や引越しなども心身に負担をかけたのでしょう、3歳頃から喘息の発作が始まり5年間ほどひどく苦しみました。息ができなくなるほどの激しい咳き込みで入退院を繰り返し、学校も休み勝ちな生活をしているうちに、独自の世界で楽しむことを覚えていったように思います。
 やがて息子は、休日などに一人で電車の写真を撮りに出掛けるようになりました。幼児期に長男が自転車に乗せて電車ごっこで遊んでくれた影響か、鉄道への関心は相当なもので、それが高じてテレビゲームの路線の駅名を確かめるために東京まで単独行を決行したと知った時は、本当に仰天しました。と同時に、よき理解者のつもりでいた私もまた、事前に言っても許してはくれない頑固な親だと思われていることを思い知らされたのです。
 息子は中学に入学すると野球部に入りました。けれど、部活でヘトヘトに疲れ切って帰宅する身体に、日課の宿題をこなす余力はありませんでした。学校の事情を何も知らない私の提案で、通知票の評価がどうなってもいいから宿題を免除してもらいたいと先生に申し出て、殴られたらしいことを最近知りました。自室に何枚も張り巡らされた「打倒!○○」と大書きされた紙は、自尊心を踏みにじられた息子のやり場のない怒りだったのだと思います。それでも部活を続けながら頑張りましたが、6月頃から体調を崩して学校を休み勝ちになりました。充電のためとはいえ時々学校を欠席する子供の姿は、小中の9年間を皆勤で通したという主人には、わがままな怠け者としか映らなかったようです。息子は主人を完全に避けるようになりましたが、その分私が不満の受け皿になりました。そこから逃れるために、私は登校貯金なるものまで始めて息子を登校させようと圧力をかけ続けました。成績は下降線をたどり、部活も願いどおりにはいかない悪循環に加えて、どちらを向いても自分を抱きしめてくれる人など一人もいない四面楚歌の中で、息子は一年余を頑張り続けて、あの日を迎えることになったのです。
 起死回生を図るはずの夏休みでしたが、息子の生活は昼夜逆転となり、テレビゲームに熱中する毎日でした。学習とはおよそ縁遠い生活ぶりに、二学期に向けて一抹の不安がなかったわけではありませんが、目の前に頭から布団をかぶって丸まっている息子を見るのはショックでした。案の定、実情を知った主人からは怒りの矛先を向けられて辛い日々が続きました。医学書を読みあさり、病院の精神科に助けを求め、児童相談所に泣きつき、教育委員会に駆け込み、クラスの担任に息子への手紙を要請しに行きました。何とかして現状を打破したい一心でテレビゲームのコードを切ったこともありましたが、何の解決にもなりませんでした。逆に、よき理解者であるかのような顔をしながら自分の本当の気持ちなど何も分かっていないと、息子から強烈に批判されることになり、奈落の底に突き落とされたような絶望感にさいなまれた日もありました。当時息子は、古い掛布団を丸めて紐で縛ったものを相手に、毎日のようにプロレスまがいの格闘をしていましたが、あの掛布団が誰だったのか何だったのかは今も分かりません。

 転機は、藁をもつかむ思いで入手した登校拒否シリーズ3冊の本を一気に読み終えた時に訪れました。駒ヶ根で『のぞみ学園』を開設されている北澤康吉先生の、明快で率直で何よりも愛に満ち溢れた文章をとおして、登校拒否の本当の意味と息子が求めていたものをはっきり知ることができたのです。言い知れない喜びと安堵とで涙が止まりませんでした。登校させようとしない!と決意したら、身体をがんじがらめにしていた鎖から解かれたような身軽さを感じました。泣くも人生笑うも人生、どうせ一度の人生を生きるなら、本の題名のように、『ほがらかに』暮らそうという気になったことを、息子に告げました。
 当初、息子は私の変化に半信半疑でしたが、いつのまにか私と向き合って本音で話しができるようになっていました。アコースティックギターを独習して、弾き語ってくれるようにもなりました。社会で活躍している著名人の中に不登校経験者がいるという理由で、主人の考え方が少し変化したことも、息子が命がけで不登校を決行した成果でしょう。
 3年になり、進路問題が具体化し始めると、息子は落ち着かなくなりました。人並みに進学したいようでしたが、学力も出席日数も問題外に不足していましたし、中学校の延長のような教育システムにはついて行き切れないだろうと思いました。情報不足を痛感しましたが、幸い校長先生にご紹介いただいた愛知県の全寮制の高校に入学できました。よき師よき友よき環境に恵まれて青春を存分に謳歌し、今は東京でしっかりと自活しています。
 今年もまた、私の誕生日を忘れずにメールを送ってくれました。
『誕生日ですね
 覚えてました? 50代もいよいよ最後の一年、よく今日まで生きて来れました 生きてくれました ありがとう 相変わらず忙しい毎日だろうけど(中略)あなた自身のマイペースを大切にこれからも長く生きてくれ 幸せを祈ってるよ』。