親の声
《父親の思い》 社会とのつながりへ導く希望2004年06月25日
Category: 親の声
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あるきっかけから子どもサポートプランという活動を知った。私はその活動が不登校という事実・現実に対して何ができるのだろうと、その疑問がサポートプランに関わり始めてからも、今尚絶え間なく続いています。
サポートプランを知った頃には、すでに我が家は不登校の状況は抜けていました。しかし、活動を通 じて不登校を持った多くの方々の声を聞くと、我が家と同じように不登校を始めた最初はどの家族も子どもにその原因を求めています。そして、その解消のために結果 的に無理やり、そして力ずくで(本人に対しては暴力的とも言える方法で)登校させようとしている。そして、家族は不登校が深化するにつれて平行するように険悪になっています。 何が家族をそこまで深刻化させるのだろう?学校に行かないだけのことなのに? 選択肢はいくらでもあるのだろうけれど、学校に行くことだけが「正しい」という考えにとらわれてしまう。そして結局のところ、学校以外の別 の選択肢を家族と本人が選ぶまでにどれくらい紆余曲折が行われなければならないのだろうかと考えてしまいます。
不登校(ひきこもりも含め)に対しては「待つことが必要」と多く叫ばれています。しかし、「待つこと」で本当に救われるのでしょうか?先に私が述べましたが、選択肢が本当に多くあるのでしょうか?「待つこと」のみで選択肢を見つけられるのでしょうか?私の家族の場合、「待つこと」で結果的には抜け出すことができました。しかしそれは偶然にも、本人にとってのよりよい選択肢に「会えた」からだと思います。そして、「待つ時間」を周囲の環境(うまく言えませんが世間や社会という目かもしれない)から得ることができたからだと思っています。不登校への対応は確かに10人10様であろうと思います。そんな個々人の対応は「相談員」「カウンセラー」や、「親の会」においても個別可能であろうと思いますし、もっともなところ、個別に多様な方法で対応していくしかないように思います。
しかし、「待てる社会=世間」と「選択肢の多様」は個々の対応では限界があるように思うのです。不登校の家族での「悲劇」ともいえるような状況は、学校に行かないことではないように私は思います。選択肢を選べない(先の見えない)状況と待つことのできない社会の板ばさみからくる悪循環が「悲劇」に近いものを生み出しているように思えるのです。
「待つこと」はできた。では、その次に何ができるのだろう。彼ら彼女らの背中を軽く「ポン」と押して、一歩前に踏み出しやすい状況と社会環境(世間)を作り上げておくことが一番よいのではないだろうか?私はそれを信じています。すぐにはできないのは確実でしょうけれど。ところが今、我が家では二人目の不登校児が育っています。その子がそんな社会環境からの「恩恵」を受けられるようになることは時間的にはまだ無理だろうな、と思うのです。当面 は「待つこと」になるのでしょう。そして、いい選択肢を待つしかないのでしょうね。
最近の書籍ベストセラー「13才のハローワーク」を読みました。
この本は子ども達を「社会」に導く一つの希望だと作者は言っております。私はサポートプランも子ども達を社会とのつながりへ導く希望であって欲しいと願ってやみません。
あるきっかけから子どもサポートプランという活動を知った。私はその活動が不登校という事実・現実に対して何ができるのだろうと、その疑問がサポートプランに関わり始めてからも、今尚絶え間なく続いています。
サポートプランを知った頃には、すでに我が家は不登校の状況は抜けていました。しかし、活動を通 じて不登校を持った多くの方々の声を聞くと、我が家と同じように不登校を始めた最初はどの家族も子どもにその原因を求めています。そして、その解消のために結果 的に無理やり、そして力ずくで(本人に対しては暴力的とも言える方法で)登校させようとしている。そして、家族は不登校が深化するにつれて平行するように険悪になっています。 何が家族をそこまで深刻化させるのだろう?学校に行かないだけのことなのに? 選択肢はいくらでもあるのだろうけれど、学校に行くことだけが「正しい」という考えにとらわれてしまう。そして結局のところ、学校以外の別 の選択肢を家族と本人が選ぶまでにどれくらい紆余曲折が行われなければならないのだろうかと考えてしまいます。
不登校(ひきこもりも含め)に対しては「待つことが必要」と多く叫ばれています。しかし、「待つこと」で本当に救われるのでしょうか?先に私が述べましたが、選択肢が本当に多くあるのでしょうか?「待つこと」のみで選択肢を見つけられるのでしょうか?私の家族の場合、「待つこと」で結果的には抜け出すことができました。しかしそれは偶然にも、本人にとってのよりよい選択肢に「会えた」からだと思います。そして、「待つ時間」を周囲の環境(うまく言えませんが世間や社会という目かもしれない)から得ることができたからだと思っています。不登校への対応は確かに10人10様であろうと思います。そんな個々人の対応は「相談員」「カウンセラー」や、「親の会」においても個別可能であろうと思いますし、もっともなところ、個別に多様な方法で対応していくしかないように思います。
しかし、「待てる社会=世間」と「選択肢の多様」は個々の対応では限界があるように思うのです。不登校の家族での「悲劇」ともいえるような状況は、学校に行かないことではないように私は思います。選択肢を選べない(先の見えない)状況と待つことのできない社会の板ばさみからくる悪循環が「悲劇」に近いものを生み出しているように思えるのです。
「待つこと」はできた。では、その次に何ができるのだろう。彼ら彼女らの背中を軽く「ポン」と押して、一歩前に踏み出しやすい状況と社会環境(世間)を作り上げておくことが一番よいのではないだろうか?私はそれを信じています。すぐにはできないのは確実でしょうけれど。ところが今、我が家では二人目の不登校児が育っています。その子がそんな社会環境からの「恩恵」を受けられるようになることは時間的にはまだ無理だろうな、と思うのです。当面 は「待つこと」になるのでしょう。そして、いい選択肢を待つしかないのでしょうね。
最近の書籍ベストセラー「13才のハローワーク」を読みました。
この本は子ども達を「社会」に導く一つの希望だと作者は言っております。私はサポートプランも子ども達を社会とのつながりへ導く希望であって欲しいと願ってやみません。
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