親の声
息子と生きてきた日々
更新:2009年11月14日
自転車に乗って通り過ぎる小学生、「こんにちは」の大きな声が響く。そんな子供達に出会う度に息子達の子供の頃が懐かしく思い出されると共にホロ苦い思いが心の中に広がる。
【信じられない。小五息子が不登校に】
三男が小五の出来事です。まさか私の子が不登校になるなんて・・・信じられない事でした。何故?後になって考えればあの事やこの事、思い当たる事がありますが、その時はまさか、まさかと、きっと三男の心の中は少しずついろいろな事が蓄積して、そうなってしまったのではないかと、今ではあの子の気持ちが少しずつ見えて来るような気がします。
今でもはっきり覚えているのは、注文した本が届かなかった時の事です。弟も同じ様に封筒にお金を入れ希望する本に丸印を付け持たせたのに、三男には注文したはずの本が届かなかったのです。「先生に聞いても『知らない。』と言われた。お母さん聞いて欲しい。」と言われ「音楽会があるから聞いてみるね。」1週間ほど後の音楽会終了後、息子の教室に行ってみると、もう学級会が始まっていて、何やら先生が子供達に話をしていました。私はノックするのをためらい、そのまま帰宅、「ごめんね、行ったけど先生の話始まってて帰って来ちゃった、又聞いてみるから・・・。」そう言いながら私はすっかり忘れてしまっていました。
幾日かたった朝、息子はカバンはしょったものの学校へ行こうとはしません。私は仕事に行かなければなりませんし、怒り怒り車に乗せ、学校の近くで降ろしました。それから毎日の様に登校をいやがる様になったのです。その時の私の頭の中には不登校の始まりという自覚がまったく無かったのです。「何故行かないの!?」大きな声で怒り、無理やり車に乗せ、学校の所で引きずり降ろす、そんな事を何日位したでしょうか。彼は学校へ行くものの窓ガラスを割ったり、教頭先生を殴ってみたり、時には裸足のまま外へ飛び出し、どこかへ行ってしまったり、さまざまな問題行動を起こし、担任の先生にとっては毎日授業にならない日々が続いた様です。その事を学校に行かなくなってからお聞きしました。そしてついに朝起きて来なくなってしまったのでした。そうなってようやく「ああ息子は不登校になったのだ」と気が付き、「どうしよう、どうしよう」私の心と頭の中は本当にパニックになりました。私は会社も行かなければなりませんでしたし、長男は高三で進路の事などあり、毎日が暗い重い日々の連続でした。会社を辞めて息子と一緒に居た方が良いのだろうかとも思い、悩みました。そして、さらに辛かったのは息子の不登校が都合のいいお茶飲み話にされていた事でした。お向かいの息子さんが同級生で、毎朝今日は登校した、しない、ずっと休んでいる、等々同級生のお母さんにチェックされ、それをご近所の方々に話されていた事でした。親しくしているおばあちゃんからその話を聞いた時は本当にショックでした。深い悲しみと共に心の底から、怒りを覚えた事を思い出します。人の事などほっておいてほしい。静かにしておいてほしい。心からそう思いました。苦しくて心が爆発しそうになった事もしばしばでした。
担任の先生からは「本の注文書とお金を探してみたけれど見つかりませんでした。」とのお話で同じ本を本屋さんに問い合わせてみたが、無いという事で他の本を持って来てくださいましたが、息子は会おうともせず、本を置いて帰られたことを覚えています。しばらくして先生は結婚され、本の注文の件はそれっきりになってしまいました。学校に行けなくなった事を、夫に話しても仕事が忙しかった事とう無口であることも手伝って、ほとんど取り合ってもらえませんでしたし、返ってくる言葉は「様子を見るしかない。仕方ない。」でした。少し救われた思いがしたのは近所に住む小学校の先生をしておられる同級生のお母さんに話を聞いていただいた時です。その方が勤めている学校にも、学校に来られない子供がいて、親の会があるという事をお聞きし、「もしよかったら話してみませんか?」という事でした。知らない地域でしたので「又、お話しする時間ができたらお願いします」とお断りしましたが、息子と同じ様に学校に行けない子供が他にもいるんだ、私と同じ様にその事で悩んでいるお母さんがいるんだという事を聞いただけでも、何故かとても心の中が楽になったような救われた思いがしました。自然と私も頑張らなければという思いも湧いて来たのを思い出します。それでも心の晴れる日はほんのわずか、やはり暗い重い気持ちは毎日続きました。
【小五から小六へ】
小五から小六へ、修学旅行には先生方やお友達のお力添えで行くことはしましたが、今写真を見ても晴れ晴れとした笑顔は消えています。担任の先生は毎日のように来て下さいましたが、二階から下りて来る事はなく、会おうとはしませんでした。それでも学校行事のある時期は保健室登校していた様に思います。帰宅後私はつとめて、息子と一緒にご飯の仕度をしたり、テレビを見たり、お洗濯物を取り込む事を頼んだり、犬の散歩をしてもらったりしました。そんな時、同級生の中で新聞配達が流行っている事を四男が聞いてきて「新聞配達をしたい。」と言うと、三男も「やりたい。」と言うのです。新聞屋さんに問合せると家の周りの配達を頼みたいとのことで四十数軒はあったと思います。それを三男と四男で手分けし、三男は家から遠い所、四男は家の近く、二人の新聞配達は始まりました。朝四時頃には新聞が来るので、それを仕分けして二人が出発して行きます。手違いがあってはいけないと私も気を配り、子供達と一緒に起きて送り出したり、起こしても起きれない朝は、代わりに配達したり、今思うと若かったからよくできたなぁと本当は懐かしい日々です。学校に行かなくなっても少しイキイキした毎日だった様に思います。三男の新聞配達は中学校卒業まで続きました。保健室登校したりしなかったりの日々でしたが心配した小学校卒業式には出席でき、卒業しました。
【中学校生活 と 三男と四男】
中学校生活は新しいお友達の加わった中始まったものの、又数ヶ月で登校できなくなってしまったのでした。冬季オリンピックのため、前年から毎日のように長野へ通勤していた夫はオリンピックが終わり、長野へ通わなくても良くなったと喜んでいた矢先、長野へ転勤になってしまいました。
長男は大学生でお金はかかるし、二男は高校三年生、三男・四男は中学入学、私は仕事を辞める事もできず、結局夫に単身赴任してもらう事になりました。それでも中学生になってからの不登校は担任の先生が来て下さると一緒にテレビを見て過ごしたり、話をしたり、時には一緒に夕ご飯を食べていただいたり、けっこう楽しくしていた様に思います。私自身、不登校に対しては以前より息子の気持ちを少しずつ理解できる様になってきてはいましたが、やはり不安はいつも心の中にありました。しかし、その不安も二年生の夏休み明けには薄らいだのです。三男のクラスに転校生が来ると、その子と馬が合ったのか、登校する様になりました。転校して来たお友達が毎日のように学校帰りに家に寄ってくれ、私が帰宅してみるといつも楽しそうに他のお友達も一緒に話しをしたり、時には教科書を開いている時のありました。息子の笑顔もとても良い笑顔に戻って来たのです。でも、それもつかの間、今度は四男が登校できなくなってしましました。二年で家の近くに戻してもらうからと言っていた夫は転勤にならず、相変わらずの単身赴任、そして次男の進学、家は私と三男四男の三人暮らし、又心配と悲しみが一杯になり、暗い毎日でした。子供の前では泣けないので、夜犬を連れて散歩に出かけては東の空に向かい「朝の来ない夜はない。夜明けはきっと来る。」と何度も何度もくり返し、犬を抱いてよく泣いたものです。切なくて切なくて、声を出して大泣きした事もありました。
独身だった四男の先生はよく来てくださり、一緒に話しをして下さったり、ご飯を食べて下さったり、お休みの時などは、長野から戻った夫と一緒に飲んで遅くまで話していって下さった事もありました。そのうち、何かスポーツをさせてみようと、先生が卓球同好会を立ち上げてくださり、「学校へ来なくていいから、卓球しに来い。」と言って放課後、卓球をしに行く様になりました。先生には「勉強しても意味がない。」とか「進学しても仕方ない。」とかいう様な事を話していた様です。
登校できない時は毎日お友達が来てくれ、よく遅れて登校していました。卓球が好きになり、中学生の卓球の大会等出場し、私も応援に行きましたが、家で見ている我が子とは違い、生き生きとした気迫が感じられ、とても感動したことを覚えています。
【高校生活 そして 再々不登校に】
高校進学の意味も機会ある毎に、夫も私も話し、お蔭様で三男も四男もそれぞれが希望する高校に入学する事ができ、ようやく子供達も私達も長い暗いトンネルを抜け出すことができたと思っていました。ところが、五月、又三男が高校に行けなくなってしまったのです。部活もして生き生きした毎日を送っていたと思っていたのに。いくつか私に思い当たる点がありました。一つは入学後しばらくしての英語のテストで赤点を取ってしまった事です。それに私の仕事の関係で帰りの電車の迎えの事があり、携帯を持たせたのですが、行けなくなった前の夜の事、ひどいイジメのメールが入ったのでした。今でも覚えていますが、それは酷い(むごい)内容のものでした。そのメールもこんな酷いメールをと思い、息子に内緒で消してしまいました。送り主の分からないまま。息子はすでに読んだと思いますが、私もいらぬ事をしたと後悔しました。
それからの三男は今までにない生活になってしまいました。担任の先生にもお話して、クラスで話し合いをしてもらいましたが、クラスの生徒の中には、いやがらせメールを送ったという者は居ない様ですとの報告を受け、その件はそれで終わりになりました。
私が家に居る内は全く布団から出て来ない。食事もしない。お風呂にも入らない。布団が腐ってしまうのではないかとさえ思いました。それでも根気良く声をかけて暮らしました。1ヶ月ほどして起きてくる様になりましたが今度はテレビの前に座ったきりで、お尻の跡が体の脂で黒くなってしまうのではないかと思うほどでした。このままではいけない、何とかしなければせっかく進学できたのに・・・。しかし、今までの息子の事を思うと、きっと動き出す時が来ると信じ「高校にいかなくなっちゃったから、お小遣いあげられないけど、どう内職でもして稼いでみない?」と持ちかけたのです。息子がする気になったので、それからは新聞広告等見て一生懸命内職を探しました。見つかった所へ電話して、事情をお話して始まりました。ネジや小さな部品を100コとか200コ袋に詰める仕事でした。仕事を私が取りに行く、昼間やった仕事を私が夜届けるのくり返し。床屋さんにも行かず伸びた髪をかき上げながら彼は一生懸命数えていたのを思い出します。時には仕事が間に合わず夜遅くまで二人で数えた事もありました。
3・4ヶ月続いたでしょうか?内職がしばらく無くなってしまいました。又、このまま引きこもっていたのではと、息子と話し近所でコンビニをしている方の所へ出向き事情を聞いていただきアルバイトさせてほしいとお願いしました。それから数日後、彼は近くのコンビニでバイトを始めたのでした。一応休学という事になっていましたが、高校はアルバイト禁止でしたので「何かあったらお母さんが責任をとるから、校長先生にも担任の先生にもお母さんが頭を下げるから心配しないで。」と不安気な息子に話しました。彼はとても真面目に働いたと一緒に働いた方から後になってお聞きしました。秋から冬になり息子と出掛けた車の中で「どう来年又高校に戻ってみない?」と話しかけると「もうあんな高校へは行かないよ」「そうだね、高校だけがすべてじゃないからね。」の私に、「あのクラスに同じ中学出身の人がいなかったら僕は行っていたと思う。」と話しました。その高校に進学した同じ中学校出身の子供の数は十二名ほどで、息子のクラスに七名もいたのでした。きっと中学校時代不登校だったからの配慮でしょうか、そのあたりは分かりませんが、息子から返って来た言葉はそうでした。年が明け1月半ば「お母さん高校受け直すよ。」「そう頑張って。じゃあ、担任の先生にお話して手続きしないとね。」彼を決心させたのは、彼の前向きな思いと、いつも彼の話を聞いてくれていた中学校からの友人が居たからだった様に思います。
【高校再入試 と 大学進学】
退学し、受験、お蔭様で合格、彼は休む事もなくバンド活動をしながら無事卒業、先生からの推薦入学をお断りし、「国立大学に行きたい。」との希望で1年間松本の予備校へ通いました。毎朝6時半、バイクにまたがり出掛けます。帰りはいつも終電、家に着けば11時を回っていました。1年間本当に真面目に頑張り翌年念願叶って国立大学へ入学する事ができました。それもいつも話しを聞いてもらっていた友人と同じ大学、同じ学部へ、息子は今四年生、卒論が通れば卒業です。夏休みに帰って来た時「大学院を受験させて欲しい。今度は寮に入って、奨学金を借りるから。」と話し「あと1ヶ月最後の追い込み、英語ができないから合格は難しい。」の彼に「あなたの人生だから思う存分やりなさい。お父さんもお母さんも応援しているから。」と言い見送りました。そして、先日合格したと連絡がありました。
【子供を信じて生きたい】
彼は今、自分の夢に向かって突っ走っています。学校へ行けなくなった時は本当にどうしていいか分からない辛い暗い日々でしたが、とにかく子供を信じる事が大切なんだという事を思います。この子もこんなに頑張って生きている。私も負けない様に生きないと・・・。
今でも私は未熟な母親です。でも、子供の不登校の体験を通じ、子供に学び成長させてもらいました。私自身どんな逆境に対しても耐える忍耐力が付いた、強くなれた気がします。多分、息子達のこうした生い立ちがなければ今の様な思いやる心や逆境に打ち勝つ前向きな精神は養われなかったと思います。今、私と同じような悩みをかかえているお母さん、お父さん、どうか子供を信じてあげてください。見守ってあげて下さい。その子の素晴らしい事を誉めてやって下さい。生活の中で命の尊さと生きる事の素晴らしさ、いつもどこに居てもどんな時もあなたの事を守ってあげる。親の思いを言葉にして伝えてほしい。
暗い闇の日々が続いても、きっと朝日は昇ります。そして、一人で悩まずに時には手をつなぎ、時には泣いてもいい、きっと笑って話せる時がきます。子供を信じて生きて下さい。もう私の中では遠い出来事になりつつありますが、息子達と私が生きてきた証しとして筆をとってみました。
【信じられない。小五息子が不登校に】
三男が小五の出来事です。まさか私の子が不登校になるなんて・・・信じられない事でした。何故?後になって考えればあの事やこの事、思い当たる事がありますが、その時はまさか、まさかと、きっと三男の心の中は少しずついろいろな事が蓄積して、そうなってしまったのではないかと、今ではあの子の気持ちが少しずつ見えて来るような気がします。
今でもはっきり覚えているのは、注文した本が届かなかった時の事です。弟も同じ様に封筒にお金を入れ希望する本に丸印を付け持たせたのに、三男には注文したはずの本が届かなかったのです。「先生に聞いても『知らない。』と言われた。お母さん聞いて欲しい。」と言われ「音楽会があるから聞いてみるね。」1週間ほど後の音楽会終了後、息子の教室に行ってみると、もう学級会が始まっていて、何やら先生が子供達に話をしていました。私はノックするのをためらい、そのまま帰宅、「ごめんね、行ったけど先生の話始まってて帰って来ちゃった、又聞いてみるから・・・。」そう言いながら私はすっかり忘れてしまっていました。
幾日かたった朝、息子はカバンはしょったものの学校へ行こうとはしません。私は仕事に行かなければなりませんし、怒り怒り車に乗せ、学校の近くで降ろしました。それから毎日の様に登校をいやがる様になったのです。その時の私の頭の中には不登校の始まりという自覚がまったく無かったのです。「何故行かないの!?」大きな声で怒り、無理やり車に乗せ、学校の所で引きずり降ろす、そんな事を何日位したでしょうか。彼は学校へ行くものの窓ガラスを割ったり、教頭先生を殴ってみたり、時には裸足のまま外へ飛び出し、どこかへ行ってしまったり、さまざまな問題行動を起こし、担任の先生にとっては毎日授業にならない日々が続いた様です。その事を学校に行かなくなってからお聞きしました。そしてついに朝起きて来なくなってしまったのでした。そうなってようやく「ああ息子は不登校になったのだ」と気が付き、「どうしよう、どうしよう」私の心と頭の中は本当にパニックになりました。私は会社も行かなければなりませんでしたし、長男は高三で進路の事などあり、毎日が暗い重い日々の連続でした。会社を辞めて息子と一緒に居た方が良いのだろうかとも思い、悩みました。そして、さらに辛かったのは息子の不登校が都合のいいお茶飲み話にされていた事でした。お向かいの息子さんが同級生で、毎朝今日は登校した、しない、ずっと休んでいる、等々同級生のお母さんにチェックされ、それをご近所の方々に話されていた事でした。親しくしているおばあちゃんからその話を聞いた時は本当にショックでした。深い悲しみと共に心の底から、怒りを覚えた事を思い出します。人の事などほっておいてほしい。静かにしておいてほしい。心からそう思いました。苦しくて心が爆発しそうになった事もしばしばでした。
担任の先生からは「本の注文書とお金を探してみたけれど見つかりませんでした。」とのお話で同じ本を本屋さんに問い合わせてみたが、無いという事で他の本を持って来てくださいましたが、息子は会おうともせず、本を置いて帰られたことを覚えています。しばらくして先生は結婚され、本の注文の件はそれっきりになってしまいました。学校に行けなくなった事を、夫に話しても仕事が忙しかった事とう無口であることも手伝って、ほとんど取り合ってもらえませんでしたし、返ってくる言葉は「様子を見るしかない。仕方ない。」でした。少し救われた思いがしたのは近所に住む小学校の先生をしておられる同級生のお母さんに話を聞いていただいた時です。その方が勤めている学校にも、学校に来られない子供がいて、親の会があるという事をお聞きし、「もしよかったら話してみませんか?」という事でした。知らない地域でしたので「又、お話しする時間ができたらお願いします」とお断りしましたが、息子と同じ様に学校に行けない子供が他にもいるんだ、私と同じ様にその事で悩んでいるお母さんがいるんだという事を聞いただけでも、何故かとても心の中が楽になったような救われた思いがしました。自然と私も頑張らなければという思いも湧いて来たのを思い出します。それでも心の晴れる日はほんのわずか、やはり暗い重い気持ちは毎日続きました。
【小五から小六へ】
小五から小六へ、修学旅行には先生方やお友達のお力添えで行くことはしましたが、今写真を見ても晴れ晴れとした笑顔は消えています。担任の先生は毎日のように来て下さいましたが、二階から下りて来る事はなく、会おうとはしませんでした。それでも学校行事のある時期は保健室登校していた様に思います。帰宅後私はつとめて、息子と一緒にご飯の仕度をしたり、テレビを見たり、お洗濯物を取り込む事を頼んだり、犬の散歩をしてもらったりしました。そんな時、同級生の中で新聞配達が流行っている事を四男が聞いてきて「新聞配達をしたい。」と言うと、三男も「やりたい。」と言うのです。新聞屋さんに問合せると家の周りの配達を頼みたいとのことで四十数軒はあったと思います。それを三男と四男で手分けし、三男は家から遠い所、四男は家の近く、二人の新聞配達は始まりました。朝四時頃には新聞が来るので、それを仕分けして二人が出発して行きます。手違いがあってはいけないと私も気を配り、子供達と一緒に起きて送り出したり、起こしても起きれない朝は、代わりに配達したり、今思うと若かったからよくできたなぁと本当は懐かしい日々です。学校に行かなくなっても少しイキイキした毎日だった様に思います。三男の新聞配達は中学校卒業まで続きました。保健室登校したりしなかったりの日々でしたが心配した小学校卒業式には出席でき、卒業しました。
【中学校生活 と 三男と四男】
中学校生活は新しいお友達の加わった中始まったものの、又数ヶ月で登校できなくなってしまったのでした。冬季オリンピックのため、前年から毎日のように長野へ通勤していた夫はオリンピックが終わり、長野へ通わなくても良くなったと喜んでいた矢先、長野へ転勤になってしまいました。
長男は大学生でお金はかかるし、二男は高校三年生、三男・四男は中学入学、私は仕事を辞める事もできず、結局夫に単身赴任してもらう事になりました。それでも中学生になってからの不登校は担任の先生が来て下さると一緒にテレビを見て過ごしたり、話をしたり、時には一緒に夕ご飯を食べていただいたり、けっこう楽しくしていた様に思います。私自身、不登校に対しては以前より息子の気持ちを少しずつ理解できる様になってきてはいましたが、やはり不安はいつも心の中にありました。しかし、その不安も二年生の夏休み明けには薄らいだのです。三男のクラスに転校生が来ると、その子と馬が合ったのか、登校する様になりました。転校して来たお友達が毎日のように学校帰りに家に寄ってくれ、私が帰宅してみるといつも楽しそうに他のお友達も一緒に話しをしたり、時には教科書を開いている時のありました。息子の笑顔もとても良い笑顔に戻って来たのです。でも、それもつかの間、今度は四男が登校できなくなってしましました。二年で家の近くに戻してもらうからと言っていた夫は転勤にならず、相変わらずの単身赴任、そして次男の進学、家は私と三男四男の三人暮らし、又心配と悲しみが一杯になり、暗い毎日でした。子供の前では泣けないので、夜犬を連れて散歩に出かけては東の空に向かい「朝の来ない夜はない。夜明けはきっと来る。」と何度も何度もくり返し、犬を抱いてよく泣いたものです。切なくて切なくて、声を出して大泣きした事もありました。
独身だった四男の先生はよく来てくださり、一緒に話しをして下さったり、ご飯を食べて下さったり、お休みの時などは、長野から戻った夫と一緒に飲んで遅くまで話していって下さった事もありました。そのうち、何かスポーツをさせてみようと、先生が卓球同好会を立ち上げてくださり、「学校へ来なくていいから、卓球しに来い。」と言って放課後、卓球をしに行く様になりました。先生には「勉強しても意味がない。」とか「進学しても仕方ない。」とかいう様な事を話していた様です。
登校できない時は毎日お友達が来てくれ、よく遅れて登校していました。卓球が好きになり、中学生の卓球の大会等出場し、私も応援に行きましたが、家で見ている我が子とは違い、生き生きとした気迫が感じられ、とても感動したことを覚えています。
【高校生活 そして 再々不登校に】
高校進学の意味も機会ある毎に、夫も私も話し、お蔭様で三男も四男もそれぞれが希望する高校に入学する事ができ、ようやく子供達も私達も長い暗いトンネルを抜け出すことができたと思っていました。ところが、五月、又三男が高校に行けなくなってしまったのです。部活もして生き生きした毎日を送っていたと思っていたのに。いくつか私に思い当たる点がありました。一つは入学後しばらくしての英語のテストで赤点を取ってしまった事です。それに私の仕事の関係で帰りの電車の迎えの事があり、携帯を持たせたのですが、行けなくなった前の夜の事、ひどいイジメのメールが入ったのでした。今でも覚えていますが、それは酷い(むごい)内容のものでした。そのメールもこんな酷いメールをと思い、息子に内緒で消してしまいました。送り主の分からないまま。息子はすでに読んだと思いますが、私もいらぬ事をしたと後悔しました。
それからの三男は今までにない生活になってしまいました。担任の先生にもお話して、クラスで話し合いをしてもらいましたが、クラスの生徒の中には、いやがらせメールを送ったという者は居ない様ですとの報告を受け、その件はそれで終わりになりました。
私が家に居る内は全く布団から出て来ない。食事もしない。お風呂にも入らない。布団が腐ってしまうのではないかとさえ思いました。それでも根気良く声をかけて暮らしました。1ヶ月ほどして起きてくる様になりましたが今度はテレビの前に座ったきりで、お尻の跡が体の脂で黒くなってしまうのではないかと思うほどでした。このままではいけない、何とかしなければせっかく進学できたのに・・・。しかし、今までの息子の事を思うと、きっと動き出す時が来ると信じ「高校にいかなくなっちゃったから、お小遣いあげられないけど、どう内職でもして稼いでみない?」と持ちかけたのです。息子がする気になったので、それからは新聞広告等見て一生懸命内職を探しました。見つかった所へ電話して、事情をお話して始まりました。ネジや小さな部品を100コとか200コ袋に詰める仕事でした。仕事を私が取りに行く、昼間やった仕事を私が夜届けるのくり返し。床屋さんにも行かず伸びた髪をかき上げながら彼は一生懸命数えていたのを思い出します。時には仕事が間に合わず夜遅くまで二人で数えた事もありました。
3・4ヶ月続いたでしょうか?内職がしばらく無くなってしまいました。又、このまま引きこもっていたのではと、息子と話し近所でコンビニをしている方の所へ出向き事情を聞いていただきアルバイトさせてほしいとお願いしました。それから数日後、彼は近くのコンビニでバイトを始めたのでした。一応休学という事になっていましたが、高校はアルバイト禁止でしたので「何かあったらお母さんが責任をとるから、校長先生にも担任の先生にもお母さんが頭を下げるから心配しないで。」と不安気な息子に話しました。彼はとても真面目に働いたと一緒に働いた方から後になってお聞きしました。秋から冬になり息子と出掛けた車の中で「どう来年又高校に戻ってみない?」と話しかけると「もうあんな高校へは行かないよ」「そうだね、高校だけがすべてじゃないからね。」の私に、「あのクラスに同じ中学出身の人がいなかったら僕は行っていたと思う。」と話しました。その高校に進学した同じ中学校出身の子供の数は十二名ほどで、息子のクラスに七名もいたのでした。きっと中学校時代不登校だったからの配慮でしょうか、そのあたりは分かりませんが、息子から返って来た言葉はそうでした。年が明け1月半ば「お母さん高校受け直すよ。」「そう頑張って。じゃあ、担任の先生にお話して手続きしないとね。」彼を決心させたのは、彼の前向きな思いと、いつも彼の話を聞いてくれていた中学校からの友人が居たからだった様に思います。
【高校再入試 と 大学進学】
退学し、受験、お蔭様で合格、彼は休む事もなくバンド活動をしながら無事卒業、先生からの推薦入学をお断りし、「国立大学に行きたい。」との希望で1年間松本の予備校へ通いました。毎朝6時半、バイクにまたがり出掛けます。帰りはいつも終電、家に着けば11時を回っていました。1年間本当に真面目に頑張り翌年念願叶って国立大学へ入学する事ができました。それもいつも話しを聞いてもらっていた友人と同じ大学、同じ学部へ、息子は今四年生、卒論が通れば卒業です。夏休みに帰って来た時「大学院を受験させて欲しい。今度は寮に入って、奨学金を借りるから。」と話し「あと1ヶ月最後の追い込み、英語ができないから合格は難しい。」の彼に「あなたの人生だから思う存分やりなさい。お父さんもお母さんも応援しているから。」と言い見送りました。そして、先日合格したと連絡がありました。
【子供を信じて生きたい】
彼は今、自分の夢に向かって突っ走っています。学校へ行けなくなった時は本当にどうしていいか分からない辛い暗い日々でしたが、とにかく子供を信じる事が大切なんだという事を思います。この子もこんなに頑張って生きている。私も負けない様に生きないと・・・。
今でも私は未熟な母親です。でも、子供の不登校の体験を通じ、子供に学び成長させてもらいました。私自身どんな逆境に対しても耐える忍耐力が付いた、強くなれた気がします。多分、息子達のこうした生い立ちがなければ今の様な思いやる心や逆境に打ち勝つ前向きな精神は養われなかったと思います。今、私と同じような悩みをかかえているお母さん、お父さん、どうか子供を信じてあげてください。見守ってあげて下さい。その子の素晴らしい事を誉めてやって下さい。生活の中で命の尊さと生きる事の素晴らしさ、いつもどこに居てもどんな時もあなたの事を守ってあげる。親の思いを言葉にして伝えてほしい。
暗い闇の日々が続いても、きっと朝日は昇ります。そして、一人で悩まずに時には手をつなぎ、時には泣いてもいい、きっと笑って話せる時がきます。子供を信じて生きて下さい。もう私の中では遠い出来事になりつつありますが、息子達と私が生きてきた証しとして筆をとってみました。
広木先生相談会に参加して
更新:2008年11月22日
私の三人息子の内、二人(長男と三男)が不登校をそれぞれ3年弱と5年弱経験しています。彼らは、今はすでにその「不登校」の期間は過ぎ、それぞれ専門学校と高校に進学して、それぞれ彼らなりに充実した(?)学生生活を送っているようです。私は彼らの不登校時代に「相談会」や「親の会」に出席したことはありませんでしたが、今回初めて参加させていただきました。
20名ほどの参加者が見え、ちょっと人が多いのかなと感じ、参加者の方から実直な質問や相談がでるのかなと最初気になりました。始まりの会場は少し固い雰囲気もありました。しかし一人の方が話し始めると、相談会の2時間半がまったく足らなくなるほど多くの方から次々と相談があがってきました。いろいろな方の相談を聞きながら「ああ、そう言えば我が家でもあんなことがあったなぁ」「我が家ではこんな場合、こんな風にしていたなぁ」と思い当たることが多くありました。
もし、こんな時に私が声を上げていたら、我が家のケースが正しいのかどうかはわかりませんが、同じ思いやケースを体験した人が多くいるという安心感を相談者に持っていただけたのではないかと思いました。これは「親の会」の場面では十分に理解されるものだと感じました。
私は広木先生のカウンセリング(相談に対する返答)が非常に的確であったと納得することを越えて、相談者の気持ちのとらえ方の確実さに驚きですらありました。不登校の原因の追究や「不登校の状態」を速やかに「登校できる状態」に戻すことを本来するべきことではなく、不登校の子どもをめぐる関係性を修復することであり、信頼関係の形成に重きを置くべきであるということが、終始相談会の時間に感じられました。それはカウンセラーと相談者との関係性をまず形成しようとするお話内容からも十分に伺えました。こんな素晴らしいカウンセリングを受けることができたのなら、まさに相談者にとってはその場に光明が見えてくるのではないでしょうか。
相談会に出席された方々やその場で相談をされた「お母さん」はみな素晴らしい方々ばかりでした。このような場を持ち、思いを共有できた方々が「何か」をつかみながら、新たな気持ちで子育てを続けたならば、きっともう一歩足を前に進めることができるのではないでしょうか。そんな勇気が持てたような相談会であったと思いました。
20名ほどの参加者が見え、ちょっと人が多いのかなと感じ、参加者の方から実直な質問や相談がでるのかなと最初気になりました。始まりの会場は少し固い雰囲気もありました。しかし一人の方が話し始めると、相談会の2時間半がまったく足らなくなるほど多くの方から次々と相談があがってきました。いろいろな方の相談を聞きながら「ああ、そう言えば我が家でもあんなことがあったなぁ」「我が家ではこんな場合、こんな風にしていたなぁ」と思い当たることが多くありました。
もし、こんな時に私が声を上げていたら、我が家のケースが正しいのかどうかはわかりませんが、同じ思いやケースを体験した人が多くいるという安心感を相談者に持っていただけたのではないかと思いました。これは「親の会」の場面では十分に理解されるものだと感じました。
私は広木先生のカウンセリング(相談に対する返答)が非常に的確であったと納得することを越えて、相談者の気持ちのとらえ方の確実さに驚きですらありました。不登校の原因の追究や「不登校の状態」を速やかに「登校できる状態」に戻すことを本来するべきことではなく、不登校の子どもをめぐる関係性を修復することであり、信頼関係の形成に重きを置くべきであるということが、終始相談会の時間に感じられました。それはカウンセラーと相談者との関係性をまず形成しようとするお話内容からも十分に伺えました。こんな素晴らしいカウンセリングを受けることができたのなら、まさに相談者にとってはその場に光明が見えてくるのではないでしょうか。
相談会に出席された方々やその場で相談をされた「お母さん」はみな素晴らしい方々ばかりでした。このような場を持ち、思いを共有できた方々が「何か」をつかみながら、新たな気持ちで子育てを続けたならば、きっともう一歩足を前に進めることができるのではないでしょうか。そんな勇気が持てたような相談会であったと思いました。
すべての人が輝く時が来るように
更新:2008年07月27日
いよいよ夏本番。きみの大好きなプールも始まりました。
日に日に日焼けしていくきみは、毎日が楽しくてたまらないようです。
でも、2ヶ月前の5月には学校に行けなくなった時もありました。今は少人数クラスに自分の居場所を見つけ、毎日通えるようになりました。» 続きを読む
日に日に日焼けしていくきみは、毎日が楽しくてたまらないようです。
でも、2ヶ月前の5月には学校に行けなくなった時もありました。今は少人数クラスに自分の居場所を見つけ、毎日通えるようになりました。» 続きを読む
家族で成長しあえた2年間
更新:2006年09月25日
我家に嵐が吹いたのは、丁度今から2年前。夏の終わり、秋の初めのちょっとうら悲しいこの季節だった。風のにおいや秋晴れの空、稲穂の色づきや、虫の声、それらすべてのものが、私にあの頃をよみがえらせる。もうとっくに癒えたはずの、心の引き出しにそっとしまったはずの苦い経験が、今でもたまに顔を出す。»
続きを読む
失くして与えられた
更新:2005年12月25日
一人っ子の長男が不登校を始めたのは中一の2学期の初めからだった。その後卒業まで殆ど学校には行かなかった。不登校に理解のある塾と出会い、そこへはずっと行き続けた。勉強はしたいのだと言っていた。»
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不登校について最初に よく知っていればよかった
更新:2005年08月25日
このところ、十代半ばの少年による何とも痛ましい事件が頻発しています。複雑な事情があるのでしょうが、私は彼らが後戻りできないところまで自分を追い込んでいく途中で、自己発散することができなかった状況を哀れに思います。»
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綿毛になって、飛び立とう
更新:2005年06月25日
たんぽぽの季節がやってきました。土手や田んぼの畦に黄色の鮮やかな模様を紡ぎ出しています。辰野町ではちょうどこの季節に『不登校を考える親の会』が始まりました。»
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《親のつぶやき》「定時制高校」
更新:2005年02月25日
今の時期、中学3年生のご家庭では進路についてあれこれ不安を抱いている毎日をすごされているのではないでしょうか?我家の場合を思い返してみました。»
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《父親の思い》 社会とのつながりへ導く希望
更新:2004年06月25日
あるきっかけから子どもサポートプランという活動を知った。私はその活動が不登校という事実・現実に対して何ができるのだろうと、その疑問がサポートプランに関わり始めてからも、今尚絶え間なく続いています。»
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8年程前二人の子どもがほぼ同時期に不登校になった頃…
更新:2004年05月25日
8年程前二人の子どもがほぼ同時期に不登校になった頃、どうしてなのか、どうしたらいいのか分からない不安や絶望でいっぱいの日々を過していました。»
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