若者の声
不登校の私2005年12月25日
Category: 若者の声
投稿:しゃち/
そのころ私は毎朝トイレに立てこもっていました。トイレは我が家で唯一の中からカギがかかり完全に一人になれる場所。家にはトイレが二カ所あったので1つが私の避難所になっていました。
そこで毎朝3時間、家族が会社や学校へ出かけて一安心するまでじっと息を潜めていました。
そのころとは、私が登校を断固拒否していた小・中学校時代のことです。9年間ある義務教育のうち、3年程しか学校へ通っていません。小学校2年生のはじめに不登校になりました。いじめられたわけでも、暴力があったわけでもありません。直接の理由やきっかけは全く思い当たりません。ただ学校へ行くことが嫌で嫌でしかたなかったのです。
「学校へ行きたくない。」と頭で考えるよりも先に、身体症状が出ていました。腹痛とおう吐がひどく、食事も水分も摂れなくなり脱水症状を起こしては、しょっちゅう入院していました。入院している時は気分が楽でした。学校を休むことが認められ、堂々としていられたからです。十数日間、点滴のみで絶食したこともあったけれど、学校に行くことに比べたら全然へっちゃらでした。
無理矢理頑張って登校することもたまにありました。けれど、そこは私にとって居心地のいい場所ではありませんでした。先生は私について、クラスメイトにこう話されました。「この子は心が病気だから学校を休んでいるんだよ。かわいそうだから、みんな優しくしてあげて。」クラスメイトも先生も、まるで腫れ物に触るかのように優しく、笑顔と猫なで声で接してくれました。授業中に手を挙げれば真っ先にあててくれる、スポーツをするときにはハンデをくれる、敬語で話しかけてくれる・・・。「かわいそうだから」が、みんなの決まり文句でした。でも、みんなの善意が辛かった。贅沢でしょうか。教室には私の居場所は無く、お客さんになった気分でした。なによりも、「私はやっぱり病気なんだ。みんなとは違うんだ。私はおかしいんだ。」と教室へ行くたびに確信していました。
学校が嫌で嫌でしかたなかった当時の私ですが、その一方で「普通に学校へ行ける人になりたい。」と強く思ってもいました。「普通の人」にすごく憧れていました。「不登校」の自分は絶対に許せなかった。「私が私じゃなかったらどうだろう。私がいなくなるってどんな感じなんだろう。」体の芯がスッと冷たくなって、頭をクラクラさせながら、しょっちゅうそんなことを考えていました。「朝起きたら“普通の人”になっていたらいいなあ。」と考えながら寝ていたものです。「学校行きたくない。」と言いながら、ものすごく行きたくもあったわけです。
小・中学校を形だけ卒業して、高校は普通科の全日制へ進みました。どうしても“普通”にこだわっていたのです。「もう不登校はしない。」と決めていました。実際、休まず3年間通いました。しかし、そこはあまり評判のよくない高校でした。人に学校名を言うだけで励まされたり、慰められたり、何で?と聞かれたり。まだまだ私は普通になれないんだ、と思うと悔しくて、部活や生徒会に入ったり“頑張って”学校を楽しみました。勉強でトップも取りました。幸い仲のいい友達に恵まれ、居心地のいい場所があったことが救いでした。けれど、不登校だったことは誰にも話しませんでした。とにかく不登校を帳消しにしたかった。毎日楽しそうに登校する私を見て、ある時祖母が言いました。「まるで人が違うみたい。あんな学校だけど、本当にいい子になってよかった。」その言葉を聞いてショックを受けました。今までの私が否定されたと感じ、悲しくなりました。今までの私とは、私自身がずっと否定してきた「不登校の私」です。
そのころ、家の本棚にあった北澤康吉・美裟子先生の著書「だいじょうぶだよ登校拒否」に出会いました。なにげなく読み始めてすぐに鳥肌が立ち、涙が出てきました。不登校のあのころ読んでいれば、と思いました。私が不登校だった小・中学生時代、北澤先生には両親が何度もお世話になっていたのです。しかし、私は当時「学校」「不登校・登校拒否」「勉強」といったものに、言葉を聞いただけでぞっとするひどい抵抗がありました。そこに関わる人や本、場所は極力避けていました。真っ暗闇で、辛くて、悲しくて、苦しかった登校拒否。それを北澤先生は「とても大事な生命の現象」と受けとられ、「そのままで、心おきなく、充分に」「揺れるまま、しばらくの間をニコニコと」とおっしゃっているのです。「私は不登校だったけど、それでも別にいいのかもしれない。これからも、それなりに大丈夫かもしれない。」少しづつ、光が射してくる感じがしました。
もっと不登校のことを知りたい、自分を知りたい、と思うようになり高校卒業後、大学へ行くことにしました。教育学関係か、心理学関係か迷った末、「資格が多く取れるから」という先生のすすめもあって教員養成系の教育学部へ進学しました。すぐに失敗した、と思いました。学校教育の立場からの不登校支援は、やはり学校へ戻すことが基本のようでした。こうやって学校へ連れてくる、だんだん慣らせば登校できる、長引かせてはいけない、こういう子どもがなりやすい、登校拒否の予防・・・。なんか違う、不登校の人はそれでいいのだろうか。それにやっぱり不登校はわがままで悪いことなのだろうか。疑問と違和感、不安は大きくなるばかりでした。1年間通った後、実家へ帰り通信教育課程へ編入しました。心理学関係に進路変更し、単位を取りながらこの先のことを考えています。
つい最近不登校関係のフォーラムから帰ってきた私に、欠席知らずの学校が大好きな弟が言いました。「姉ちゃんはラッキーだよね、不登校があるじゃん。不登校っていろいろにつながってる気がする。不登校生ってたくさん学んでると思うよ。俺は死んでも不登校にはなりたくないけど。」先週進学先が決まったばかりの、アーティスト志望、モコモコなパーマ頭の18才です。私と全くの正反対の弟。「不登校は家庭のせい」は、嘘だな、と思っています。
私は「やっぱり不登校した子はいろいろが続かないんだね。」と言われることがあります。私の不登校はちっとも完結しません。今もまだ謎だらけの「不登校の私」に縛られています。不登校は悪いことだとは思わなくなりました。でも、いいことだったとは思えません。ましてや自分で選んだ道というわけでは決してありません。なるべくしてなった、そんな気がします。自分がさっぱり分かりません。自分の経験なのに、理解できないことが多すぎます。けれど自分の中で、理解できなければ正しくない、だから認めない、などと「不登校の私」を排除してしまいたくありません。矛盾と破綻ばかりの「不登校の私」を訳の分からないままに受け止め、これからも一緒に歩いていきたいです。読んでいただき、ありがとうございました。
そのころ私は毎朝トイレに立てこもっていました。トイレは我が家で唯一の中からカギがかかり完全に一人になれる場所。家にはトイレが二カ所あったので1つが私の避難所になっていました。
そこで毎朝3時間、家族が会社や学校へ出かけて一安心するまでじっと息を潜めていました。
そのころとは、私が登校を断固拒否していた小・中学校時代のことです。9年間ある義務教育のうち、3年程しか学校へ通っていません。小学校2年生のはじめに不登校になりました。いじめられたわけでも、暴力があったわけでもありません。直接の理由やきっかけは全く思い当たりません。ただ学校へ行くことが嫌で嫌でしかたなかったのです。
「学校へ行きたくない。」と頭で考えるよりも先に、身体症状が出ていました。腹痛とおう吐がひどく、食事も水分も摂れなくなり脱水症状を起こしては、しょっちゅう入院していました。入院している時は気分が楽でした。学校を休むことが認められ、堂々としていられたからです。十数日間、点滴のみで絶食したこともあったけれど、学校に行くことに比べたら全然へっちゃらでした。
無理矢理頑張って登校することもたまにありました。けれど、そこは私にとって居心地のいい場所ではありませんでした。先生は私について、クラスメイトにこう話されました。「この子は心が病気だから学校を休んでいるんだよ。かわいそうだから、みんな優しくしてあげて。」クラスメイトも先生も、まるで腫れ物に触るかのように優しく、笑顔と猫なで声で接してくれました。授業中に手を挙げれば真っ先にあててくれる、スポーツをするときにはハンデをくれる、敬語で話しかけてくれる・・・。「かわいそうだから」が、みんなの決まり文句でした。でも、みんなの善意が辛かった。贅沢でしょうか。教室には私の居場所は無く、お客さんになった気分でした。なによりも、「私はやっぱり病気なんだ。みんなとは違うんだ。私はおかしいんだ。」と教室へ行くたびに確信していました。
学校が嫌で嫌でしかたなかった当時の私ですが、その一方で「普通に学校へ行ける人になりたい。」と強く思ってもいました。「普通の人」にすごく憧れていました。「不登校」の自分は絶対に許せなかった。「私が私じゃなかったらどうだろう。私がいなくなるってどんな感じなんだろう。」体の芯がスッと冷たくなって、頭をクラクラさせながら、しょっちゅうそんなことを考えていました。「朝起きたら“普通の人”になっていたらいいなあ。」と考えながら寝ていたものです。「学校行きたくない。」と言いながら、ものすごく行きたくもあったわけです。
小・中学校を形だけ卒業して、高校は普通科の全日制へ進みました。どうしても“普通”にこだわっていたのです。「もう不登校はしない。」と決めていました。実際、休まず3年間通いました。しかし、そこはあまり評判のよくない高校でした。人に学校名を言うだけで励まされたり、慰められたり、何で?と聞かれたり。まだまだ私は普通になれないんだ、と思うと悔しくて、部活や生徒会に入ったり“頑張って”学校を楽しみました。勉強でトップも取りました。幸い仲のいい友達に恵まれ、居心地のいい場所があったことが救いでした。けれど、不登校だったことは誰にも話しませんでした。とにかく不登校を帳消しにしたかった。毎日楽しそうに登校する私を見て、ある時祖母が言いました。「まるで人が違うみたい。あんな学校だけど、本当にいい子になってよかった。」その言葉を聞いてショックを受けました。今までの私が否定されたと感じ、悲しくなりました。今までの私とは、私自身がずっと否定してきた「不登校の私」です。
そのころ、家の本棚にあった北澤康吉・美裟子先生の著書「だいじょうぶだよ登校拒否」に出会いました。なにげなく読み始めてすぐに鳥肌が立ち、涙が出てきました。不登校のあのころ読んでいれば、と思いました。私が不登校だった小・中学生時代、北澤先生には両親が何度もお世話になっていたのです。しかし、私は当時「学校」「不登校・登校拒否」「勉強」といったものに、言葉を聞いただけでぞっとするひどい抵抗がありました。そこに関わる人や本、場所は極力避けていました。真っ暗闇で、辛くて、悲しくて、苦しかった登校拒否。それを北澤先生は「とても大事な生命の現象」と受けとられ、「そのままで、心おきなく、充分に」「揺れるまま、しばらくの間をニコニコと」とおっしゃっているのです。「私は不登校だったけど、それでも別にいいのかもしれない。これからも、それなりに大丈夫かもしれない。」少しづつ、光が射してくる感じがしました。
もっと不登校のことを知りたい、自分を知りたい、と思うようになり高校卒業後、大学へ行くことにしました。教育学関係か、心理学関係か迷った末、「資格が多く取れるから」という先生のすすめもあって教員養成系の教育学部へ進学しました。すぐに失敗した、と思いました。学校教育の立場からの不登校支援は、やはり学校へ戻すことが基本のようでした。こうやって学校へ連れてくる、だんだん慣らせば登校できる、長引かせてはいけない、こういう子どもがなりやすい、登校拒否の予防・・・。なんか違う、不登校の人はそれでいいのだろうか。それにやっぱり不登校はわがままで悪いことなのだろうか。疑問と違和感、不安は大きくなるばかりでした。1年間通った後、実家へ帰り通信教育課程へ編入しました。心理学関係に進路変更し、単位を取りながらこの先のことを考えています。
つい最近不登校関係のフォーラムから帰ってきた私に、欠席知らずの学校が大好きな弟が言いました。「姉ちゃんはラッキーだよね、不登校があるじゃん。不登校っていろいろにつながってる気がする。不登校生ってたくさん学んでると思うよ。俺は死んでも不登校にはなりたくないけど。」先週進学先が決まったばかりの、アーティスト志望、モコモコなパーマ頭の18才です。私と全くの正反対の弟。「不登校は家庭のせい」は、嘘だな、と思っています。
私は「やっぱり不登校した子はいろいろが続かないんだね。」と言われることがあります。私の不登校はちっとも完結しません。今もまだ謎だらけの「不登校の私」に縛られています。不登校は悪いことだとは思わなくなりました。でも、いいことだったとは思えません。ましてや自分で選んだ道というわけでは決してありません。なるべくしてなった、そんな気がします。自分がさっぱり分かりません。自分の経験なのに、理解できないことが多すぎます。けれど自分の中で、理解できなければ正しくない、だから認めない、などと「不登校の私」を排除してしまいたくありません。矛盾と破綻ばかりの「不登校の私」を訳の分からないままに受け止め、これからも一緒に歩いていきたいです。読んでいただき、ありがとうございました。
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