連載コラム
【特別】「なおる」ということ。2004年11月27日
Category: 連載コラム
北澤康吉/ロジャース流カウンセラー
「治る」「直る」。「なおる」とはいったいどういうことでしょうか。多勢の諸君に出遇ってきました。のぞみ学園を始めて丸16年。何千という諸君に直接・間接遇ってきました(9割くらいはご両親の相談です)。
「心」とは何なのか、どうなっているのか。本当のところはやはり分からないのです。とりわけ何人かの諸君、その諸君に僕らは何が出来たろうか。何も出来なかったのではないか。多少の努力もしたかもしれないが、虚しさだけが残った。結局、私たちとのつながりがいつの間にか消えてしまった諸君。この世に生きていけなかった、ご家族の手から、大事な方々の手から残念ながら生命が「こぼれ」てしまった諸君。「心のことは結局何も分かっていないのだ」「何も出来ないのだ」、そう思わざるを得ません。
ただ、同時に、時間の流れの中で、動き出していく諸君をまさに山ほど見てきました。僕らが特に何かをしたわけではありません。多少ある時期の不充分な伴走者としていただけだけれど、しかし、結局、諸君自身が動き出していったという事実を、まさにおびただしい数で見てきました。
「心のことは全く分からない、ほとんど分からない」というのも事実です。しかし、分からないままに、結局、素敵な展開がやがて確実に始まる。その幸せな眩しい場面に何度も何度も立ち合わせていただいたのも事実です。
「なおす」は基本的にないのです。「2週間で直す」とか「登校拒否を治すカウンセリング」を謳(ウタ)う人もおりますが、未熟な僕らにはそれはとても真実とは思えません。心のことに関して、精神のことに関して、人様のそれを「なおす」ということはそもそも「無い」のです。「もっての外」のことなのです。「冒涜(ボウトク)」なのです。
「なおる」のは諸君自身です。「なおす」のは諸君とその背後にあって諸君を支えている「大きな生命」の働きだけです。
それにだいたい「登校拒否」という姿そのものが「なおす」「なおる」という次元のことではないようです。それ自体が「生きるため」に意味を持って起こる「生命現象」「生命の安全反応」なのだと思っております。登校拒否も一つの生きざまであり、登校拒否以後もまたその人の生きざまなのです(と、つくづく諸君から教わってきました)。
ただ、その苦しい真っ最中のとき、その苦しさがまた新たなストレスとして加重されるわけですから、それだけは避けたい。その時を如何に楽に、更なる傷をつけずに通り抜けられるかだけが大事なのです。そのことだけを考えていれば良いのです。その若干のお手伝いをするのが周囲の者の仕事、親の、教師の、諸君に関る者の、私達のような者の仕事なのです。カウンセリングはその範囲のみに限られます。そこを逸脱してはならないのです。医療についてもまた同じでしょう。傍(ハタ)の者がそれ以上に偉そうにしゃしゃり出ることはできませんし、してはならないのだと思います。
「なおる」は事実に反し、不適切な言葉です。「なおす」は論外と言うほかありません。
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「心」とは何なのか、どうなっているのか。本当のところはやはり分からないのです。とりわけ何人かの諸君、その諸君に僕らは何が出来たろうか。何も出来なかったのではないか。多少の努力もしたかもしれないが、虚しさだけが残った。結局、私たちとのつながりがいつの間にか消えてしまった諸君。この世に生きていけなかった、ご家族の手から、大事な方々の手から残念ながら生命が「こぼれ」てしまった諸君。「心のことは結局何も分かっていないのだ」「何も出来ないのだ」、そう思わざるを得ません。
ただ、同時に、時間の流れの中で、動き出していく諸君をまさに山ほど見てきました。僕らが特に何かをしたわけではありません。多少ある時期の不充分な伴走者としていただけだけれど、しかし、結局、諸君自身が動き出していったという事実を、まさにおびただしい数で見てきました。
「心のことは全く分からない、ほとんど分からない」というのも事実です。しかし、分からないままに、結局、素敵な展開がやがて確実に始まる。その幸せな眩しい場面に何度も何度も立ち合わせていただいたのも事実です。
「なおす」は基本的にないのです。「2週間で直す」とか「登校拒否を治すカウンセリング」を謳(ウタ)う人もおりますが、未熟な僕らにはそれはとても真実とは思えません。心のことに関して、精神のことに関して、人様のそれを「なおす」ということはそもそも「無い」のです。「もっての外」のことなのです。「冒涜(ボウトク)」なのです。
「なおる」のは諸君自身です。「なおす」のは諸君とその背後にあって諸君を支えている「大きな生命」の働きだけです。
それにだいたい「登校拒否」という姿そのものが「なおす」「なおる」という次元のことではないようです。それ自体が「生きるため」に意味を持って起こる「生命現象」「生命の安全反応」なのだと思っております。登校拒否も一つの生きざまであり、登校拒否以後もまたその人の生きざまなのです(と、つくづく諸君から教わってきました)。
ただ、その苦しい真っ最中のとき、その苦しさがまた新たなストレスとして加重されるわけですから、それだけは避けたい。その時を如何に楽に、更なる傷をつけずに通り抜けられるかだけが大事なのです。そのことだけを考えていれば良いのです。その若干のお手伝いをするのが周囲の者の仕事、親の、教師の、諸君に関る者の、私達のような者の仕事なのです。カウンセリングはその範囲のみに限られます。そこを逸脱してはならないのです。医療についてもまた同じでしょう。傍(ハタ)の者がそれ以上に偉そうにしゃしゃり出ることはできませんし、してはならないのだと思います。
「なおる」は事実に反し、不適切な言葉です。「なおす」は論外と言うほかありません。
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