北澤康吉/ロジャース流カウンセラー

学校とは家庭に匹敵するかそれ以上の「安全・安心な居場所」。身体にとっても、心にとっても。一人々々が「それ自体で存在価値を持ち」、「そのままで光り輝く」場所。そして、そのことを概ね「いつも充分に感じている場所」。

 国民学校1年生で終戦。父は応召で戦地、家は疎開児童の数十人と胃癌で寝たままの姑を抱えた母の奮闘、そして過労と病気。
 「とても落ち着きのない子です」と言われ続けた。授業中机の上を飛び回っていたという。「どんなご家庭のお子さんかと思った」と当時の恩師T子先生。
 その先生が苦肉の策として、クラスで一番落ち着いて一番勉強の出来るH君と並べて僕を坐らせた。生涯続く尊敬できる友。
 そんな僕がやがて勉強をし始めたのが不思議。何でも万遍なくとはいかず、好きなものにはのめり込み、嫌いなものは後回しでそのまま。相変らず落ち着きないデコボコのままの僕の姿を先生は認めてくれていた。
 戦後、東京へ引き上げられた後、90歳過ぎた今日でもそんな僕を覚えてくれている大事な恩師、T子先生。

 その後の3、4年のA先生もデコボコあるままに僕を認めてくれていた。いつの間にか僕にとって、学校の方がはるかに居場所になっていた。家では父母のいさかいが絶えず、ハラハラの毎日であった。学校がなかったらおそらく僕は「つぶれ」ていた。あるいは、まるで「ぱっとしない」人間になっていた。終戦直後のドサクサな時代、それでも僕にとっては多勢の友達に出遇い、先生に出遇い、川や魚の自然に出遇い・・・僕の原風景をつくる大事な大事な時期であった。

 K君、Y君。小さい時からの生涯の友。H君、周りでは僕らをライバルと思っていたが、僕にはそんな気持ちはさらさらなかった。「彼より一点でも多く取ろう」などと思ったこともなかった。あくまでも尊敬できる友だち、僕とはタイプもかなり違う「すごいなあ、俺とはだいぶ出来が違うなあ」と舌を巻く友達。

 小学校、取り分け中学校で出遇ったまさに多彩な友達。イジメたりイジメられたりもあった。それなりにつらいことも極くたまにはあったが、仲直りしたり、いたずらを含めたいわゆる多勢の「ガキ友達」に恵まれた。魚を採るのが好きで好きで、魚のことなら誰とでも友達になり、どこまでも出かけて行った。全て学校が出遇いの場であり、楽しみの中心であった。僕は学校で守られ、学校で育てられた。

 相撲をよくとった。もともと運動が苦手の僕が相撲だけはどういうわけか好きで得意で、暇さえあれば相撲をとっていた。天性の自然児ほどではないが、ややその傾向に育てられたのもそういったいろいろのお蔭であった。この年になってある親しい先輩から「自然児!」と呼ばれた。一瞬びっくりしたが、嬉しかった。学校がなければ得られない大切な一つ一つを僕は仲間や自然からたくさん頂いた。

 いろいろなタイプの先生に出遇った。子供がこの世に生まれ、その幼い最初の時期に出遇う一番大事な大人は先ずお母さん、お父さん、その他の家族、親戚、ご近所。その次に出遇うこれまた特別大事な「上質の」大人が学校の先生、そして仲間たち。その人たちとの出遇いの中で、「人間ていいな」「大人っていいな」「いつかあんな人になりたいな」といった気持ちを育ててくれる場所が学校。生きる楽しみを、大人になる楽しみを知る場所が学校。

 学ぶ楽しさ、分かる喜び、知る喜び、創る楽しさをいっぱい経験するのが学校。それも仲間と一緒に。勉強が苦手の仲間が何かを分かり何かを越えたとき、自分のことのように喜びを感ずるのが学校。仲間といる楽しさをいっぱい経験するのが学校。生涯の友に出遇う場所が学校。

 高校時代。まこと該博な知識を持つ先生に出遇った。生意気盛りの僕でもどうしても頭を下げるしかなかったすごい先生。相変らずデコボコのままの僕を大いに買い、信頼しきってくれた先生。「北澤君のやることは全ていい」とまで言ってくれた先生がいた。僕はとてもそんな人間でないことをよく知っていたが、それでもそう思い、そう言われる方がいるということは、僕を基本のところでしっかりと支えてくれた。

 16歳、17歳の頃。昔だってまこと危うい「魔の年齢」だった頃。受験勉強とそのストレスの中で、いろいろな強迫神経症が出、恐怖・不安に襲われ、胃潰瘍・十二指腸潰瘍に苦しめられ、今なら真っ先に登校拒否になるところだったが、むしろ学校があることで僕は救われた。友達に会い、先生に会うことで僕は救われた。学校へ行くことで癒され元気が出た。
 実によく立たされた。勉強もやったが、何かにつけてよく立たされた。相変わらず落ち着きがなく、どこかイタズラ坊主で、デコボコしていた。大学の初っ端の授業。時間に遅れ、ガタガタと下駄で入って行き、立たされた。さすがに「これが立たされる最後になるか」と思い、そのままの姿勢で今まで立たされた数を勘定してみた。小学校はもう無数で、そして過去の霞の向こうで、これは勘定するのを諦めた。中学校からは思い出せる範囲で一所懸命丹念に数えあげてみた。何と58回、今立っているのを加えれば59回。「これがたぶん最後だろうなあ、60回に手が届かなかったなあ。それにしてもよく立たされたなあ」と感慨もひとしおだった。
 それでも、立たされても怒られても、学校が好きだった。学校が僕の生活の重要部分を占めており、支えになっていた。僕は学校で「もった」。学校で輝きを与えられた。

 大学では「哲学」をやった。これは結果的には予想外れで、僕が必要としているもの、僕が本当に知りたいものとは違っていた。「人はなぜ生きるのか」「生きる目的は何か」「幸せとは何か」「人とどう関わるか」「自分自身とどう関わるか」・・・そういったことを僕は端的に知りたかった。深めたかった。ところが、大学の授業は遥かに地味なこつこつと原書・古典を紐解くものであった。
今なら多少分かる。最初から医学とか心理学とかへ行けばよかったのだ。それの方がはるかに端的に具体的に僕の希望を叶えてくれた。ただし、そのお蔭で生涯の親友、敬友に遇うことが出来たが。
 大学へ行く前は、何になろうか多少悩んだ。先生になりたい、医者にもなりたい、坊さん・牧師さんもいいなあ、これが大きな三つ、出来ればその全部になりたい。その三つになり、どこか南の離島で暮らしてみたい。その三つからはだいぶ離れて、新聞記者、水産関係、農業関係・・・幾つもあった。 
どれか一つしか選べられないから、だとすれば一番なりたいものになるしかないから、教師を選んだ。「教師になりたい」という気持ちは小学校から大学までほぼ一貫していた。

 好きで教師になった。教育に夢をかけることが出来そうな時代だった。自分で言うのもおかしいが、かなり「向いていた、合っていた」と思う。まずまずの教師だったと思うが、これは出遇った生徒諸君に判定してもらえばいいこと。
 長野県内の5つの高校で26年間教師をやった。それぞれ印象深かった。全ての学校でどんな場面でも十分勤められたとは思っていない。「まずまずやれた」という感じか。
ある学校でのこと。桜で有名な古い小さな城下町。その城址の一角にこの学校はあった。ちょうど30歳に僕はなっていた。そして諸君は当たり前だが15歳で入学、そのクラスの担任になった。「底抜けに明るいクラス」と国語を担当された先輩教師の談。

 出来るだけ諸君に自由に動いてもらい、僕はその後ろを楽しみながらついていった。それから40年近く、諸君はそれぞれに場所を得て、まさに脂の乗り切った年齢になった。その一人のS君は今や世界的なオペラの演出家。昨年、母校の創立80周年で講演に招かれ、僕が栄えある講師紹介を希望して引き受けた。
 その時の同じクラスだったN君の言葉、「たった3年間なんだよな」。いろいろな響きがこもっていた。本当に僅かの3年間、どの時期だって大事なわけだが、やはり思春期の微妙にして大事な時期、その後の諸君の成長・活躍につながるそれこそ貴重な3年間であった。
 この諸君たちとの出遇いを、僕のカミさんは「担任冥利に尽きるね」と言ってくれた。学校は本来そういう場所だ、生徒諸君たちにとっても教師にとっても。
 同僚の仲間にも恵まれた。尊敬できる先輩、親しい同年輩の仲間、そして優秀な後輩教師たち。学校は教師である僕自身の大事な居場所、そこで支えられ成長させてもらった。生徒諸君たちと同様、この同僚たちとの出遇いで僕の人間観は磨かれた。そんな中で僕自身への肯定感も強められ豊かにされた。学校は教師にとってもそのような場所なのだ。

 50歳で教職を退いて今の仕事を始めた。嫌で辞めたのではない。小学校の頃からあった「小さな学校を自分でやりたい」夢に一歩近づきたかったから。より自分にあった形で「先生」をやりたかったから。
 僕には学校に対する妄信に近い思いがある。学校はとてもとても大事な所。時代が変わり姿が変わっても、学校は子どもにとって若者にとって断然主役のひとつ、家庭に匹敵するかそれ以上に大切な場所。

 登校拒否に関わる仕事を始めた。「のぞみ学園」。小さいながらもその空間をつくり、そこで生きているが、学校を否定する気持ちはさらさらない。

 出遇った多くの素敵な諸君の一人、M君。「先生、そんなに学校に拘(こだわ)らんでもいいよ。学校は有っても無くてもいいから、俺たちは大丈夫だから」。なんともサラリと、こちらはドキッと。「それほど期待していないから」。別に突っ張って無理しているのでもない。「そんなに無理しなくていいから」、きつい否定というより、優しい配慮ともとれるセリフ。それだけに僕にはなお「きつい」。

 また別のこれも印象に残るG君。「学校はタイ焼き屋のようなものだ。食べてもいいし、食べなくてもいい」。ドキッ、なんということを言ってくれて。特に力んで突っ張って言っているのでもない。さらっと、「そんなに無理しなくていいから、無理しないで」・・・の感じ。
 しかし、それにしたって学校は、僕らは「タイ焼き屋か」。ならば、ならば、プロのタイ焼き屋の誇りと面子(めんつ)にかけて、どうしても食べたくなるようなタイ焼きを作るだけ。いや待てよ、本当にタイ焼き屋のレベルなのか。学校は、教師はもっとすごいものではないのか、大事なものではないのか、学校は(タイ焼き屋さんゴメンなさい)。

 諸君の方が「醒めて」いて、「そんなに無理してくれなくていいから」と優しく配慮してくれて、こちらの方が妙に熱くなっている。それでも僕は、あるいは間違っているかも知れないが、60数年の僕の歴史にかけて、学校には「拘りたい」のだが。

 確かに公教育は大きく揺れている。どんな形になるにしろ、学校は「主役」の一つとして残ると僕は声を大にして言いたいのだが。その答えはこれから50年後ぐらいにははっきりとするだろう。ただ、近頃の文科行政を見ていると、「まだまだ落ちていくなあ」「混迷を深めていくなあ」「本来の学校と違う方向へどんどん向っているなあ」と思われるのだが。

 学校がどんな風になっていくのか。僕は残念ながら50年先のそれを生きてこの目で見ることはできないが、諸君はその結果を確実に自分の目で見られるだろう。後は諸君に任せよう。諸君を「いいなあ」と思い、諸君を信頼しているから。

補足:
 もちろん学校の全てが良かったわけではない。苦しい時もあった、辞めたい時もあった。生徒諸君のことであっても、たまには少々おかしい教師と出遭うことも。学校を包む環境も大きく変わった。出来るだけ自由に自分らしくやらせてもらったが、年を追うごとに徐々に確実に学校現場が窮屈になっていったのもまた事実。それでもそれを超えてなお、「学校の良さ」があった。そちらの方が大きかった。

 いろいろな形で折に触れての管理強化。いろいろな各種の強制はそもそも学校には馴染(なじ)まない。学校とは全く異質のもの。教育基本法改正案の強行採決。政党政治はまだ仕方ないとして、ある政党が教育の中身にまで口を挟むことは本来許されないこと。これでまた一段と学校に管理の枠がはめられた。本当にいずれそんなに先に行かないうちに、学校の本来の部分はほぼ窒息してしまうかもしれない。

 格差増大の中での競争原理の導入。こんな貧相にして危険な発想は、そもそも教育の理想の対極にあるもの。その状況の跋扈(ばっこ)、その流れを止められない無力感を感じながらも、現場のところで出来ることはまだまだいろいろあると思っている。

 イジメ自殺が大きく取り上げられている。しかし、改めて表面化したここまでの7年間、「イジメによる自殺」の学校側からの報告は一件も無かったという。信じられないような学校の閉鎖性。これは何とかしなければ。

 学校はいろいろな意味で、本来最も「開かれた場所」
であるはずだが。

【月刊「のぞみ」148号より】