北澤康吉/ロジャース流カウンセラー

【「本来の学校」とは】

 先ず、ゆっくりじっくり動いていること。納得いくまで勉強に取り組んで、その面白さをクラスの誰もが日常的に味わっていること。

苦手の子も共に巻き込みながら全員で分かる喜び、知る喜び、創る喜び、問題を越えてゆく喜びをいっぱい感じ経験するのが本来の学校ではないのか。

家庭の保護の中にいた時期から保育園・幼稚園、小学校、中学校、高校。初めて親以外の「いい大人」「いい仲間」に出遇う最初の場所が学校ではないのか。

好奇心、理解、創造、人間の温かさ・悲しみ、魅力をいっぱい知り経験するのが学校ではなかったのか。

先生や仲間を通して「人間の魅力を知る」「こんな人間になりたいなあ」「あんな大人になりたいなあ」と思える所が学校ではなかったのか。

学ぶことの厳しさはあっていい。しかしそれはこの異常な虚しい受験競争とは全くの別のもの。受験産業が国の教育の大きな部分を占めているのはまさに異常だ。

子どもは人間は元々学ぶのが好きだ。分かる喜びは他の何ものにも代えがたい。それは無味乾燥な記憶力の競争とは違う。偏差値で「友だちより1点でも多く取らねば」とも違う。

学ぶことそのものの喜びを知るには、もっとゆったりした時間の保証が要る。大きな視野を持ち、自ら生きることを楽しみ味わっている本物の大人(先生やそれに近い人たち)が要る。

スクールの語源は「閑暇」であった。「ゆったり」が何より教育現場には必要だ。その「ゆったり」を国は公は時に意図的に、時に気づかずにどんどん奪い、くずしてきた。「管理々々」の中で、「効率々々」の中でそれをむしろ意図的にやってきた。

そのことをどうするのか、これからどう保証するのかが一番基本の問題になる。差し当ってしなければならないことはあるが、同時にここに文科省の目がしっかりいっていないと困る。それをどこまで見据えている文科大臣はじめ責任ある立場の人たちかが大事だ。

「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」という名文句があった。消臭剤は、窓を開けるのは、とりあえずの役にしか立たない。

【イジメをどうやって気づくか】

「気づかずに」がどうしても多い。取り分け本人からの「言葉の発信」がない。周囲の生徒からも知っていても仲々伝わってこない。「言葉」に期待するのは無理な面が多い。学校が、校長が、文科大臣が呼びかけても充分な応えは期待できない。

親や担任、大事な人たちがどう気づけばよいのか。言葉の暴力も多いから身体の傷など全く無い場合も多い。

先ず、様子で気づくしかない。「どういう訳か学校に行きたがらない」「起きられなくなった」「登校する時間になると様子がおかしい」「トイレにこもって出てこない」「家を出るのにかなり時間がかかる」・・・等々。

元気が無くなる。いつもと違った挙止・挙動、というより、そもそも仲々動かない、動けない。様子で「これは変だ」「いつもと違う」と気づくのは本当はそんなに難しくない。

そういう状況に「いつでもわが子が置かれる可能性がある」と思って見ていれば、いつもとの違い、様子に親は先ず気づく。

「何かあったの?」と声かけは出来る。ちゃんと答えてくれないかも知れない。しかし、声をかけることはとても大切。

「もし何かあるようだったら、無理しなくていいんだよ」「家にいていいんだからね」と念のための声がけは出来る。

「学校へ行かなければ、だけど行けない」。まさにアンビバレントな状況の中に子どもはいる。両極端な気持ちのところで揺れに揺れている。

しかし、親の、大事な人の、このひと言がとても大事。ぎりぎりのところで本人を「いのち」ごと守ってくれる。

【差し当ってどうするか】

 イジメに遭ったとき、心が訳のわからぬ「恐怖」「不安」でいっぱいになったとき、何よりも先ず心身ともに安全・安心の場所に身を置くことが大切。それが緊急にして是非とも必要なこと。

その場所は殆どの子どもにとってやはり家庭だ(ここが「虐待」の場合と違う)。更に自分の部屋かも知れない。一見「引きこもり」に見えても、本人が選んだ場所がいちばん安全・安心。

励まして学校へクラスへ行き続けることは、実はかなり危険だ。イジメをきっかけに大部分の子が訳の分からぬ強烈な「不安」「恐怖」の虜(とりこ)になっている。そこへ頑張って行き続けるのは放射能を更に浴び続けるようなものだ。

今まで出会った諸君の中に30、40代になってなお動けない人がいる。まだ苦しんでいる人がいる。もう大人と言っていい人たちがいる。

その殆どがイジメの中でそれでも歯を食いしばって行き続け、頑張り続けた人たちだ。

一見頑張り屋に見える。根性あるように見える。「○○君はイジメにも負けずに学校へ来ていてすごい」といった評価を周りの大人、とり分け先生方はするかも知れない。しかし、実はそれは目に見えない放射能に身を曝(さら)し続けている姿だ。

これは危険極まりない。顔面蒼白になりながら四面楚歌・四面皆敵の中でいつ果てるともなく頑張るのは、更に大きな傷をつけ続けることと同じだ。

無理矢理「中間教室」のような所へ出させようとするのも危険が多い。そこへ進んで出かけ、担当の先生や友達とある時間を楽しく過せられれば別だが。そこが家に次ぐ居場所になれば、話は別だが。

この時、教室がいちばん恐怖の場所になっている。そして、それに準ずる場所、例えば学校そのもの、学校の中のある部屋・空間もかなり「恐怖の場所」になっている。

時々その場所へ歯を食いしばって出かける諸君がいるが、それは頑張りというより、危険を察知する機能が不幸にしてどこか欠けていることによるのではないか。

先生方はそんなタイプの子に何人か出遇っているのではないか。学校では皆で後押ししながらも何とか頑張ってくれたが、それなりに登校してくれたが、卒業してからどういう訳かまだ苦しんでいる。もっと悪化している。イジメのことはとっくに過去になったはずなのに、「どうして?」と思われるような子が。

事柄は過去になったかもしれない。だが心の奥の一旦ふくれ上がった「不安」「恐怖」は少しも過去になっていない。長い時間その中に曝(さら)され続けた分だけそれを先伸ばししてしまった、長引かせてしまった。回復のきっかけ、時間を大幅に失ってしまった、遅らせてしまった・・・というような生徒が。

先ず何より、「避難」が大事だ。イジメという事柄よりも、それによって起きた訳の分からぬ強烈な「恐怖」「不安」からどこまで安全・安心の場所に身を置けるか。

人間は人類としての何百万年という歴史の中で、哺乳類としての数千万年、2・3億年という経験の中で、危険なものから逃れる術を、即座に「恐怖」「不安」を感じ、そこから反射的に逃れる術を身につけてきた。その「安全反応」を今でも誰もが持っている。

その反応がそのつど導く所がとりあえず安心・安全な場所だ。それを一人々々は生まれながらにして身につけている。それを大事にする、それをとりあえず保障することが大事だ。とり分け周りの大事な大人達が。

【再びとりあえず】

 イジメ撲滅運動、経験者による学校講演、大臣初めいろいろな人がマスコミを通じていろいろなキャンペーンを行っている。それはそれでかなりの意味があると思う。

起こってしまっていることに対してどう対応するか。やはり目一杯の対応を各方面から速やかに適切にすることが、それも賑やかに多勢が声をあげることが、やはり当座の状況を幾分なりとも緩和することになると思う。

しかし、同時にこういった動きはやはり残念ながらいつも一過性で終わる。1年先、2年先・・・状況は結局変わらないままにキャンペーンの方は何となく沈静化してしまう。

やはり、基本的な問題、イジメが起きる構造、教育を取り巻く状況をこれを機会にどう変えるか。本来の学校はどうあるべきか。早急にこれに取り組むには何から始めなければならないか、といった部分が同時並行的に進んでいなければならない。

当該の、例えば文科省にはその動きがすでに始っていなければならない。大臣以下丸坊主になって出直す気概が、認識がなければならない。加害者の最先端にいたことへの認識を痛いほど持っていなければならない。

しかし、どう見ても大臣は、当該の役人はそんな表情をしていない。おそらくそれには全く気づいていない表情だ。むしろ指導している表情だ。

今の教育基本法改正の強硬な動きも、そのことを何も感じていないところでの動きだ。感じていないからこそ出来る動きだ。