連載コラム
緊急投稿 「イジメ自殺」について(その1)(07.1/28更新)2007年01月28日
Category: 連載コラム
北澤康吉/ロジャース流カウンセラー
【イジメは何故起きるか】
イジメ自殺が後を絶たず、その報道が続いている中、愛知県岡崎市でホームレス連続暴行事件が起きた。数名のおそらく少年による犯行。時には鉄パイプを使っての暴行、金品強奪、住んでいる所を焼く。殺された方は70歳近い高齢の女性、月7万円の年金で暮していた。
不幸な人、困っている人への優しさの欠如。人の痛みを感じる想像力の欠如。むしろ逆にそういった人たちが困っている、悲鳴をあげているのを見るとゾクゾクしてくる感覚、残酷・残虐性。
同じ日のテレビや新聞ではあちこちの県での政官経癒着・談合、社保庁の救いようの無い実態、自民党の復党問題が取上げられていた。
弱者へのしわ寄せ、貧富の格差増大の日常化とその黙認。子ども達ばかりでなく大人を含めた全体が「弱い者イジメ」の構造になっており、それがすっかり日常化している。
リストラ、ニート、中高年のうつ病・自殺の増加。年間3万人を超える自殺者が出ているのはまさに非常事態・異常事態。
国をあげての「弱い者イジメ」。その一部としての子ども達のイジメ。子ども達の方がそれでもはるかに規模は小さいが。
意識・常識のレベルへの、道徳・「人の道」としての訴えかけは殆ど意味をなさない。
もっと心の奥深いところから噴き出てくる「憎悪」「攻撃的感情」「破壊的衝動「殺意」と言ったものに根ざしてイジメは起きている。
昔、『友情ある説得』という映画があったが。例えばイラクでの殺し合いも、イジメる者達への呼びかけ働きかけも、「友情ある説得」をはるかに超えたレベルで起こっている。昔のイジメならそれもあるいは有効だったかもしれないが。
社会全体がイジメの構造。弱者に優しくない社会であり、その風潮が日常的にある。こういった中で、親は子どもを産み、育てる。子どもは生まれ、育っていく。
原風景の段階から身にしみてついてゆく、出来れば避けたいいろいろな体験・場面。そして、人間が互いに豊かに、幸せに生きていくために必須なものは仲々充分に育たない。その模範・モデルが政治にも社会にも無い。
日常生活の中で、とり分け学校生活の中で、子ども達のストレスとその蓄積は殆ど限界にまで達している。
その中で元々人間の心の奥に誰にでもある「攻撃的感情」「破壊的衝動」「殺意」「残酷性」といったものがいっぱいに膨らむ。心に溢れ返る程になる。
ヒリヒリするような攻撃的感情、破壊的衝動、殺意、残酷さ。そしてもう一方では「僕には、私には関係ないよ」という真の友情・温かさの希薄・欠如。
一人々々の寸断・孤立。勝ち組、負け組・・・みな現代の風潮、子ども達を取り巻く学校現場とその周辺、あるいは社会全体の状況。
教育へ持ち込まれた競争原理。勉強できる子も出来ない子も日常的に、一様に追い立てられている。どんな場合でも「認められている、大事にされている」という実感がない。
「これでいいんだよ。君は君で素敵だよ」と周りから認められることも、まして自分自身が認めることも無い。
「それでいい」「そんな風な君でいい」「君は君だ」「あなたらしく光っている」「・・・」「・・・・」といった認められている実感、温かみのない毎日の連続。
「アイデンティティ(自己像・identity)」の絶えざる揺れ。一皮向けば「不安」「恐怖」。「居心地」の悪さ、「居場所」の欠如。
「均一性」を求める社会、学校。突出は許されない。子どもの価値観が均一化してきている。「個性を、個性を!」と叫ばれているのはそれが充分に育っていない証拠。好み、遊び、テレビ番組、雑誌など共通の話題がなくては仲間に入れない。仲間から弾(はじ)かれる。
とり分け小中学校の時期がそうである。一見緊密なつながりが求められる。
一人々々が独立した、程よい距離の付き合いが認められない。とり分け女の子達の場合それが強い。どこかのグループに属していなければならない。そこから離れて一人というのは許されない。即、イジメにつながる。
岐阜大学医学部の高岡 健氏は「閉鎖された社会」「発展・成長しない社会」でイジメが起きる、という趣旨のことを言われていた(テレビに出てくる「大奥」などその典型か)。
今の学校、とりわけ小中学校はまさにその状況の中にある。大部分の生徒が、そして、ひょっとすると、かなりの数の先生がその閉塞感・ヒリヒリした状況の中にある。
その中でいつの間にかそれに慣れてしまって、その状況に気づかなくなった生徒、そして、先生も多いのではないか。
【どのような子がイジメの
対象になるのか。】
ほぼ全員が、かなり大多数が、ストレスの蓄積により「攻撃的感情」「破壊的な衝動」「残酷さ」「殺意」などでいっぱいになっている。それらが溢れ返り、噴き出しそうになっている。どこかへ吐き出さねばおれぬ状況になっている。
従ってイジメの対象は「誰でもいい」。とり分けどこか突出した子、変わった子、話題に入ってこない子、「超」が付く真面目な頑張り屋さん等が先ずその対象になる(本当はその一つ一つが大事な個性なのだが)。犠牲者になる。
どこかへ吐き出さねばおれぬ状況だから、本当は「誰でもいい」。程よいサイズのイジメやすい子でありさえすれば(イジメられる子の責任ではない。弱点でもない)。
ホームレスの人々への暴行がそのいい例だ。
正義感を持っていて、イジメられている子を庇(かば)おうとすれば、今度は間違いなくその子が徹底的にイジメの対象になる。元々、誰でもよかったのだから。誰か対象がいないと困るから。
イジメの対象がいなくなった時、今度はその仲間の誰かがターゲットになる。イジメの首謀者がなることすらある。
【イジメられた時、
心はどんな状態になるか】
心の奥深くには元々訳の分らぬ強烈な「恐怖」「不安」といったものがある。これは生まれながらにして誰にでもあるもの。ユングの言う「普遍的無意識」(人類の誰もが持っている無意識)と重なるもの。
おそらく人類の歴史どころか哺乳類の歴史にまで遡って刻み付けられたきた「PTSD」(心的外傷体験・post traumatic stress disorder)と言っていいようなもの。
これを「攻撃的感情」「破壊的な衝動」「残酷さ」「殺意」として、「不安」「恐怖」と同様に人類全体が誰でも例外なく持っている。
イジメられる側は、その深い部分の「恐怖」「不安」が目を覚まし、心一杯になる。イジメをきっかけに一挙に膨れ上がった訳の分からぬ強烈な「恐怖」「不安」である。
それがイジメという事実、事件の背後にあってそれよりはるかに大きな存在となり、覆い被さるような黒い影となってその子の心にのしかかる。
イジメるのは何人かなのに、けっして全員ではないのに、クラス全体への対人恐怖・視線恐怖が生じる。何人かのために教室に入る時、足がすくんでそれ以上一歩も動けなくなる。
たとえ何人かのシカトであっても「恐怖」「不安」ははるかにそれを超えた規模・対象で強烈なものになる。
恐ろしい夢、怖い夢にうなされるようになる。体調をくずす。登校しようとするとトイレに行きたくなる。神経性の下痢・便秘。靴が履けない、玄関から出られない、敷居が跨げない。頭痛、腹痛、発熱、吐き気等々。
イジメた方はそれほどに思っていなくても、それをきっかけにして起きた「恐怖」「不安」はその何倍、何十倍の強さ大きさになってその子の心に溢れるようにのしかかっている。
【勇気を出して戦うべきか。
はたして戦えるのか】
「勇気を出して共に戦おう」。本来理不尽なことへの対応だから、こういった呼びかけをしそうになる。中にはその呼びかけに応えられる諸君もいるかも知れない。しかし、その数は実は極めて少ない。
訳の分らぬ「恐怖」「不安」の虜(とりこ)になれば、それどころでない状態になっている。頭上を弾が飛んでくる塹壕(ざんごう)にいて、そこから勇敢に飛び出る子もいるかも知れないが、あまりの銃弾の激しさに今は身がすくんで勇気どころではなくなっている子もいる。塹壕の底にじっとしている諸君の方がはるかに多いように思う。
勇ましく鼓舞(こぶ)したり、突撃ラッパを吹くより、今はじっとしていて、この矢玉の圧倒的な数をやり過ごしている方が安全・安心、実際的かもしれないと思うケースが殆ど。
ベトナムで大苦戦を強いられた米軍兵士から多数のPTSDで苦しむ者が現れた。PTSDはあれ以来出来た言葉と聞いている。
「抜け出られない、得体の知れない、強烈な恐怖」「事柄が終わったあとも、目に見える事件は過去のものになっても、少しも弱まらないものすごい恐怖」。
イジメはむしろそれと共通している。
「意気地のなさ」といった問題ではない。本人に付いたイジメの傷痕(あと)の深さの問題だ。その子にとってその傷がどれだけの深さなのか大きさなのかが問題だ。その深さ大きさの所に周囲の大事な人が立っていなければ、イジメは解決しない。
イジメの度合いの判断は、客観的に周囲の者にどう見えるかではなく、本人がどう感じ、どう傷ついているかによる。
イジメへの対応を口にするかなり多くの人が、「イジメられる側にも問題があるのでは?」「あまりに過敏すぎる」「過剰反応だ」「もっと毅然としてイジメに立ち向かう勇気がなければ」「逃げずに向かい合って、経験の中でそれを超えていく力をつけよう」「似た経験は人生で何度もあることだ」といった所に立っているのではないだろうか。そうである限り、イジメは解決しない。
常識から見るとそれでいいのだが、心理的にはかなり危険だ。かえって子どもを追い込む。自分に対する否定感情を強めるだけとなる(「僕はやっぱりダメだ」といった風に)。
この否定感情はやがてその子が動き出す時の大きな妨げになったり、その後の人生のあちこちでこれが深い傷として顔を出し、滑らかにこの世を生きていくことを妨げる。
韓国の小中高校では日本の4倍ぐらいの高率でイジメ自殺があると報道されていた。日本型の社会、日本型の教育状況の中でイジメが多発し深刻化している。
韓国、台湾・・・いわゆる日本型の国々に登校拒否も多いようだ。登校拒否やイジメは同じ状況の中で起きる(私たちが出した『大丈夫だよ、登校拒否』は中国語に訳され、中華民国でも出版されている)。
同時に、韓国にもあるということが、何故イジメが起きるのか、どうすれば解決するのかを却って示唆(しさ)しているのとも言える。
激しい受験競争、教育現場に持ち込まれた競争原理、塾・予備校などの乱立。子ども、若者を追い立てる絶えざるストレス状況。日本と似た社会状況、教育をとり囲む状況の中に、却って基本的解決の手がかりが見える。
【大事な人には話せない】
イジメを受けていることは大事な人には仲々打ち明けられない。イジメによって自己像、プライド、自尊の念が著しく傷つけられ、ひどく萎縮している。どこまでも惨めな自分になっている。仲間とのことではすでにすっかりその状態になっている。
更にそれを一番大事な人、例えば母親、父親、家族、あるいは担任の先生に打ち明ければ、その最後のプライド、自尊の砦(とりで)まで明け渡すことになる。それこそみじめの極地、最悪。
人は程よいプライド・自尊の念(自分を肯定的に評価できる)がなければ、ちゃんと生きていけない。豊かに成長できない。
「いちばん話したい人がいちばん話せない人」。そのアンビバレント(両価的ambivalent)な状況の中で、心は大きく揺れる。「ちゃんと話してくれれば」「詳しく話してくれなければ」は、実はそう簡単なことではないのだ。
何年前だったろうか。イジメの中で驚くような金額をゆすられ、体調をくずして入院、そこで出会った同室の人たちに打ち明け、初めて事実が明るみに出たということがあった。
少し距離のある(いわゆる第三者。カウンセラーもまたそういう存在。但しこの時はもっと別ないくらかでも気楽に話せる第三者であれば)、ゆっくり大事に聴いてくれる人がこの時とても大切だ。
親や担任の先生は近過ぎる存在。とても第三者にはなれない。最後の砦になる大事な大事な人たちだ(この頃、そうではない場合も目立つが)。せめてその人たちにはミジメな自分をさらけ出したくない。そうしてしまったら「もう何もかも終わりだ」と思えてしまう。
【どうすれば良いのか】
文科省の大臣や役人が都道府県の教委を厳しく指導しているのにも、各都道府県の教委が現場の校長・教職員を叱咤勉励しているのにも何か違和感を覚える。
教育への競争原理、格差、金権体質、拝金主義を煽(あお)ってきたのは、あるいは教育現場へ押し付けてきたのは、この社会ではなかったのか。それを推進し黙認・黙過してきたのは国の行政ではなかったのか。それについては全く無策で、むしろその流れに手を貸してきたのは行政、文科省の側ではなかったのか。
僕は学校大好き人間だ。学校に夢をかけている。もし学校が本来の姿に戻ったら今のような執拗(しつよう)なイジメも登校拒否(不登校)もなくなるのではないか、なくなる筈だと思っている。
(以下、【本来の学校とは】以降は次号にて掲載予定です。)
次の記事:緊急投稿 「イジメ自殺」について(その2)【イジメは何故起きるか】
イジメ自殺が後を絶たず、その報道が続いている中、愛知県岡崎市でホームレス連続暴行事件が起きた。数名のおそらく少年による犯行。時には鉄パイプを使っての暴行、金品強奪、住んでいる所を焼く。殺された方は70歳近い高齢の女性、月7万円の年金で暮していた。
不幸な人、困っている人への優しさの欠如。人の痛みを感じる想像力の欠如。むしろ逆にそういった人たちが困っている、悲鳴をあげているのを見るとゾクゾクしてくる感覚、残酷・残虐性。
同じ日のテレビや新聞ではあちこちの県での政官経癒着・談合、社保庁の救いようの無い実態、自民党の復党問題が取上げられていた。
弱者へのしわ寄せ、貧富の格差増大の日常化とその黙認。子ども達ばかりでなく大人を含めた全体が「弱い者イジメ」の構造になっており、それがすっかり日常化している。
リストラ、ニート、中高年のうつ病・自殺の増加。年間3万人を超える自殺者が出ているのはまさに非常事態・異常事態。
国をあげての「弱い者イジメ」。その一部としての子ども達のイジメ。子ども達の方がそれでもはるかに規模は小さいが。
意識・常識のレベルへの、道徳・「人の道」としての訴えかけは殆ど意味をなさない。
もっと心の奥深いところから噴き出てくる「憎悪」「攻撃的感情」「破壊的衝動「殺意」と言ったものに根ざしてイジメは起きている。
昔、『友情ある説得』という映画があったが。例えばイラクでの殺し合いも、イジメる者達への呼びかけ働きかけも、「友情ある説得」をはるかに超えたレベルで起こっている。昔のイジメならそれもあるいは有効だったかもしれないが。
社会全体がイジメの構造。弱者に優しくない社会であり、その風潮が日常的にある。こういった中で、親は子どもを産み、育てる。子どもは生まれ、育っていく。
原風景の段階から身にしみてついてゆく、出来れば避けたいいろいろな体験・場面。そして、人間が互いに豊かに、幸せに生きていくために必須なものは仲々充分に育たない。その模範・モデルが政治にも社会にも無い。
日常生活の中で、とり分け学校生活の中で、子ども達のストレスとその蓄積は殆ど限界にまで達している。
その中で元々人間の心の奥に誰にでもある「攻撃的感情」「破壊的衝動」「殺意」「残酷性」といったものがいっぱいに膨らむ。心に溢れ返る程になる。
ヒリヒリするような攻撃的感情、破壊的衝動、殺意、残酷さ。そしてもう一方では「僕には、私には関係ないよ」という真の友情・温かさの希薄・欠如。
一人々々の寸断・孤立。勝ち組、負け組・・・みな現代の風潮、子ども達を取り巻く学校現場とその周辺、あるいは社会全体の状況。
教育へ持ち込まれた競争原理。勉強できる子も出来ない子も日常的に、一様に追い立てられている。どんな場合でも「認められている、大事にされている」という実感がない。
「これでいいんだよ。君は君で素敵だよ」と周りから認められることも、まして自分自身が認めることも無い。
「それでいい」「そんな風な君でいい」「君は君だ」「あなたらしく光っている」「・・・」「・・・・」といった認められている実感、温かみのない毎日の連続。
「アイデンティティ(自己像・identity)」の絶えざる揺れ。一皮向けば「不安」「恐怖」。「居心地」の悪さ、「居場所」の欠如。
「均一性」を求める社会、学校。突出は許されない。子どもの価値観が均一化してきている。「個性を、個性を!」と叫ばれているのはそれが充分に育っていない証拠。好み、遊び、テレビ番組、雑誌など共通の話題がなくては仲間に入れない。仲間から弾(はじ)かれる。
とり分け小中学校の時期がそうである。一見緊密なつながりが求められる。
一人々々が独立した、程よい距離の付き合いが認められない。とり分け女の子達の場合それが強い。どこかのグループに属していなければならない。そこから離れて一人というのは許されない。即、イジメにつながる。
岐阜大学医学部の高岡 健氏は「閉鎖された社会」「発展・成長しない社会」でイジメが起きる、という趣旨のことを言われていた(テレビに出てくる「大奥」などその典型か)。
今の学校、とりわけ小中学校はまさにその状況の中にある。大部分の生徒が、そして、ひょっとすると、かなりの数の先生がその閉塞感・ヒリヒリした状況の中にある。
その中でいつの間にかそれに慣れてしまって、その状況に気づかなくなった生徒、そして、先生も多いのではないか。
【どのような子がイジメの
対象になるのか。】
ほぼ全員が、かなり大多数が、ストレスの蓄積により「攻撃的感情」「破壊的な衝動」「残酷さ」「殺意」などでいっぱいになっている。それらが溢れ返り、噴き出しそうになっている。どこかへ吐き出さねばおれぬ状況になっている。
従ってイジメの対象は「誰でもいい」。とり分けどこか突出した子、変わった子、話題に入ってこない子、「超」が付く真面目な頑張り屋さん等が先ずその対象になる(本当はその一つ一つが大事な個性なのだが)。犠牲者になる。
どこかへ吐き出さねばおれぬ状況だから、本当は「誰でもいい」。程よいサイズのイジメやすい子でありさえすれば(イジメられる子の責任ではない。弱点でもない)。
ホームレスの人々への暴行がそのいい例だ。
正義感を持っていて、イジメられている子を庇(かば)おうとすれば、今度は間違いなくその子が徹底的にイジメの対象になる。元々、誰でもよかったのだから。誰か対象がいないと困るから。
イジメの対象がいなくなった時、今度はその仲間の誰かがターゲットになる。イジメの首謀者がなることすらある。
【イジメられた時、
心はどんな状態になるか】
心の奥深くには元々訳の分らぬ強烈な「恐怖」「不安」といったものがある。これは生まれながらにして誰にでもあるもの。ユングの言う「普遍的無意識」(人類の誰もが持っている無意識)と重なるもの。
おそらく人類の歴史どころか哺乳類の歴史にまで遡って刻み付けられたきた「PTSD」(心的外傷体験・post traumatic stress disorder)と言っていいようなもの。
これを「攻撃的感情」「破壊的な衝動」「残酷さ」「殺意」として、「不安」「恐怖」と同様に人類全体が誰でも例外なく持っている。
イジメられる側は、その深い部分の「恐怖」「不安」が目を覚まし、心一杯になる。イジメをきっかけに一挙に膨れ上がった訳の分からぬ強烈な「恐怖」「不安」である。
それがイジメという事実、事件の背後にあってそれよりはるかに大きな存在となり、覆い被さるような黒い影となってその子の心にのしかかる。
イジメるのは何人かなのに、けっして全員ではないのに、クラス全体への対人恐怖・視線恐怖が生じる。何人かのために教室に入る時、足がすくんでそれ以上一歩も動けなくなる。
たとえ何人かのシカトであっても「恐怖」「不安」ははるかにそれを超えた規模・対象で強烈なものになる。
恐ろしい夢、怖い夢にうなされるようになる。体調をくずす。登校しようとするとトイレに行きたくなる。神経性の下痢・便秘。靴が履けない、玄関から出られない、敷居が跨げない。頭痛、腹痛、発熱、吐き気等々。
イジメた方はそれほどに思っていなくても、それをきっかけにして起きた「恐怖」「不安」はその何倍、何十倍の強さ大きさになってその子の心に溢れるようにのしかかっている。
【勇気を出して戦うべきか。
はたして戦えるのか】
「勇気を出して共に戦おう」。本来理不尽なことへの対応だから、こういった呼びかけをしそうになる。中にはその呼びかけに応えられる諸君もいるかも知れない。しかし、その数は実は極めて少ない。
訳の分らぬ「恐怖」「不安」の虜(とりこ)になれば、それどころでない状態になっている。頭上を弾が飛んでくる塹壕(ざんごう)にいて、そこから勇敢に飛び出る子もいるかも知れないが、あまりの銃弾の激しさに今は身がすくんで勇気どころではなくなっている子もいる。塹壕の底にじっとしている諸君の方がはるかに多いように思う。
勇ましく鼓舞(こぶ)したり、突撃ラッパを吹くより、今はじっとしていて、この矢玉の圧倒的な数をやり過ごしている方が安全・安心、実際的かもしれないと思うケースが殆ど。
ベトナムで大苦戦を強いられた米軍兵士から多数のPTSDで苦しむ者が現れた。PTSDはあれ以来出来た言葉と聞いている。
「抜け出られない、得体の知れない、強烈な恐怖」「事柄が終わったあとも、目に見える事件は過去のものになっても、少しも弱まらないものすごい恐怖」。
イジメはむしろそれと共通している。
「意気地のなさ」といった問題ではない。本人に付いたイジメの傷痕(あと)の深さの問題だ。その子にとってその傷がどれだけの深さなのか大きさなのかが問題だ。その深さ大きさの所に周囲の大事な人が立っていなければ、イジメは解決しない。
イジメの度合いの判断は、客観的に周囲の者にどう見えるかではなく、本人がどう感じ、どう傷ついているかによる。
イジメへの対応を口にするかなり多くの人が、「イジメられる側にも問題があるのでは?」「あまりに過敏すぎる」「過剰反応だ」「もっと毅然としてイジメに立ち向かう勇気がなければ」「逃げずに向かい合って、経験の中でそれを超えていく力をつけよう」「似た経験は人生で何度もあることだ」といった所に立っているのではないだろうか。そうである限り、イジメは解決しない。
常識から見るとそれでいいのだが、心理的にはかなり危険だ。かえって子どもを追い込む。自分に対する否定感情を強めるだけとなる(「僕はやっぱりダメだ」といった風に)。
この否定感情はやがてその子が動き出す時の大きな妨げになったり、その後の人生のあちこちでこれが深い傷として顔を出し、滑らかにこの世を生きていくことを妨げる。
韓国の小中高校では日本の4倍ぐらいの高率でイジメ自殺があると報道されていた。日本型の社会、日本型の教育状況の中でイジメが多発し深刻化している。
韓国、台湾・・・いわゆる日本型の国々に登校拒否も多いようだ。登校拒否やイジメは同じ状況の中で起きる(私たちが出した『大丈夫だよ、登校拒否』は中国語に訳され、中華民国でも出版されている)。
同時に、韓国にもあるということが、何故イジメが起きるのか、どうすれば解決するのかを却って示唆(しさ)しているのとも言える。
激しい受験競争、教育現場に持ち込まれた競争原理、塾・予備校などの乱立。子ども、若者を追い立てる絶えざるストレス状況。日本と似た社会状況、教育をとり囲む状況の中に、却って基本的解決の手がかりが見える。
【大事な人には話せない】
イジメを受けていることは大事な人には仲々打ち明けられない。イジメによって自己像、プライド、自尊の念が著しく傷つけられ、ひどく萎縮している。どこまでも惨めな自分になっている。仲間とのことではすでにすっかりその状態になっている。
更にそれを一番大事な人、例えば母親、父親、家族、あるいは担任の先生に打ち明ければ、その最後のプライド、自尊の砦(とりで)まで明け渡すことになる。それこそみじめの極地、最悪。
人は程よいプライド・自尊の念(自分を肯定的に評価できる)がなければ、ちゃんと生きていけない。豊かに成長できない。
「いちばん話したい人がいちばん話せない人」。そのアンビバレント(両価的ambivalent)な状況の中で、心は大きく揺れる。「ちゃんと話してくれれば」「詳しく話してくれなければ」は、実はそう簡単なことではないのだ。
何年前だったろうか。イジメの中で驚くような金額をゆすられ、体調をくずして入院、そこで出会った同室の人たちに打ち明け、初めて事実が明るみに出たということがあった。
少し距離のある(いわゆる第三者。カウンセラーもまたそういう存在。但しこの時はもっと別ないくらかでも気楽に話せる第三者であれば)、ゆっくり大事に聴いてくれる人がこの時とても大切だ。
親や担任の先生は近過ぎる存在。とても第三者にはなれない。最後の砦になる大事な大事な人たちだ(この頃、そうではない場合も目立つが)。せめてその人たちにはミジメな自分をさらけ出したくない。そうしてしまったら「もう何もかも終わりだ」と思えてしまう。
【どうすれば良いのか】
文科省の大臣や役人が都道府県の教委を厳しく指導しているのにも、各都道府県の教委が現場の校長・教職員を叱咤勉励しているのにも何か違和感を覚える。
教育への競争原理、格差、金権体質、拝金主義を煽(あお)ってきたのは、あるいは教育現場へ押し付けてきたのは、この社会ではなかったのか。それを推進し黙認・黙過してきたのは国の行政ではなかったのか。それについては全く無策で、むしろその流れに手を貸してきたのは行政、文科省の側ではなかったのか。
僕は学校大好き人間だ。学校に夢をかけている。もし学校が本来の姿に戻ったら今のような執拗(しつよう)なイジメも登校拒否(不登校)もなくなるのではないか、なくなる筈だと思っている。
(以下、【本来の学校とは】以降は次号にて掲載予定です。)
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