連載コラム
丸太とカモメ(応答の二つの柱) No.212006年03月24日
Category: 連載コラム
北澤康吉/ロジャース流カウンセラー
心の大海原を漂流することがあります。心のことですから、いつの間にか理由もはっきりせずにそうなっていることもあります。気がついたら漂流していた、それも大海原のまっただ中であったという感じです。
「助からないのではないか」という不安、心細さ、孤独感、恐怖。私たちはこの人生で何度かこの経験をします。その強弱の差は様々であっても。
その時、いつもその人の近くにいて、とりあえずそれに掴(つかま)っていれば、溺れずに漂っていられるものが先ず何よりも必要になります。“一本の丸太”です。とりあえずそれにすがっていれば、それといっしょにいさえすれば、沈まずにはおれます。これが先ず何はさておき必要なものです。
親が、家族が実際の生活ではそうかも知れません。カウンセリングでは、広い意味でなく、狭い厳密な意味でのカウンセリングが、おそらくそれに当たると思います。その不安・恐怖・孤独感・やりきれない心細さをそのまま聴いてくれる、その気持ちのままに受けとめて共に流れ、漂ってくれる存在です。漂流する人そのものではないけれど、いつも一緒にいてくれる存在です。丸太がどんどん先を行ってしまっては困ります。丸太にはエンジンもナビゲーションといった機能もありません。ただ、共にいて、共に漂ってくれる存在です。
「うかつに粗末な舟に乗ったからだ」「思い止どまるようあんなに忠告したのに、少しも聞かなかったからだ」といった批判も責めもしません。一番辛い時はそんなものは邪魔になります。かえって苛立(いらだ)たせ、元気を無くさせます。「可哀想に、可哀想に」と同情されれば、今度はますますみじめになって、「このまま沈んでしまおうか」という気になってしま
います。「元気出せ、元気出せ」と言われれば、うるさいだけ、耳障りなだけです。「気楽なことを言うなよ」ということになります。
助けるつもりで深刻な顔をした、体重もたっぷりある人が近づいてきて、その丸太につかまれば、今度は二人で一緒に沈んでしまいます。三、四人にもなれば「もう沢山だ。離れてくれ、一人にしておいてくれ」と必死に叫ばれるかも知れません。漂流の丸太はいつも一人分なのです。
大海原を当てもなく漂流している時、心細さ・孤独感・不安・恐怖のただ中にある時、もし一羽のカモメが飛んできて「陸の方向はあっちだよ、もう一日半ほどすれば必ず着くからね。気を確かに持って頑張ってね」とか、「向こうに漁船が見えているよ。もう3、4キロでそこへ着くから頑張ってね。ボクも一所懸命合図をしてみるからね」と言われれば、展望と共に勇気もわいてきます。ちゃんとした情報提供のおかげです、確かな展望が開ける安心感です。
丸太のようにそばに一緒にはいてくれませんが、離れた高い所にいるから、かえって冷静に客観的に大局を見ることができるのです。丸太のように溺れるのを今すぐ助けることは出来ませんが、離れて上空を飛びながら、時には離れ、時には近づきながら、声をかけることは出来ます。展望がひらければ、勇気もファイトも出てくるのです。もう一つの意味でのカウンセリングです。
丸太も必要ですし、カモメも必要です。丸太だけでも困りますし、カモメだけでも困ります。狭い意味のカウンセリングではこの丸太になりきることが求められます。先ず何よりもこれが厳密に求められます。ロジャーズ流カウンセリングはまさにそういったカウンセリングです。しかし、実際にはそれぞれの人がある具体的な状況を持っているわけですから、その状況をきちんと把握することが必要で、それはカモメの役目ということになります。その両方がないと広い意味での充分なカウンセリングは成立しないと思います。
カウンセラーはその狭い意味のカウンセリングと、時に広い意味のカウンセリングの両方を求められますが、とにかく狭い意味のカウンセリングがしっかり出来ていないと基本のところが支えられません。どんなに豊かに情報を提供しても、丸太がなければ溺れて沈んでしまいます。
先ず丸太になりきらねばならないのですが、仲々これが出来そうで出来ないのです。初心の人でぱっとそうなれる人もいれば、私たちのように何十年もやっていても、今でもおぼつかなく苦手の者もおります。「先ず丸太に、先ず丸太に」といつも念じているゆえんです。
家庭ではどういうことになるのでしょうか。「丸太になりきる」ということは、家庭では仲々難しいのです。関係が近すぎるのです。密着に近いことだってあり、だからこそ親子であり、家族だと思うのです。その近い関係こそ家族だと思います。一人が揺れれば皆が木の葉のように一緒に揺れてしまうのです。「静かに、丸太のように」というわけにはいかないのです。すぐにも近づいていって一緒に丸太にぶらさがりそうになるのです。親子だからです。家族だからです。
しかし、せめて時には自分でも意識して丸太になってみることはあっていいし、やはりそれはとても大事だし、その時ふっと見えなかったものが見えてきたり、揺れるご本人がかえってほっとしたり、和(なご)んだりするのです。
家族と言えども、親子と言えども心の深い部分の漂流については一人々々別なのだと思います。まったくの他人なのだと思います。人間は本来がひとりひとりなのだと思います。独りなのです。孤りなのです。「それでいいのだ」と思います。「そういうものなのだ」と思います。親鸞上人の「弥陀の誓願はひとえに親鸞ひとりのために・・・」(歎異抄・後注)にも深いところで通ずる、それぞれ「ひとりひとり」なのだと思います。
ただ、カモメになることも、丸太になることも仲々十分にはなりきれず、どうしても中途半端にはなりますが、時には意識して丸太になってみる、それに近づいてみる努力・訓練はしてみてもいいと思います。それを自分に課してみることはあっていいのだと思います。
丸太でなくて大きな船なら、ナビもいろいろな設備も整っている大きな船ならどうか。心の深い部分に関してはそのような船は無いのだと思います。同様にカモメではなくて、ヘリコプターならどうか、すぐにも縄ばしごを垂らして救助隊員が降りてきて、即救われる。一時間後には万全な設備の病院のベッドに安らかに横たわっている、それもないのだと思います。
心の深い部分のことについては、外部の強力な、効き目絶大の、即効あるものはないのです。そんなものがあれば、かえって危険なのだと思います。人間の尊厳を、その存在を軽薄・浅薄にしてしまう程に危険なのだと思います。しかし、そうだって、そうなるにしたって、そういったものが欲しいと切実に思ってしまうのも、また事実ですが。
次の記事:「不潔恐怖(父への)」 その13 No.22心の大海原を漂流することがあります。心のことですから、いつの間にか理由もはっきりせずにそうなっていることもあります。気がついたら漂流していた、それも大海原のまっただ中であったという感じです。
「助からないのではないか」という不安、心細さ、孤独感、恐怖。私たちはこの人生で何度かこの経験をします。その強弱の差は様々であっても。
その時、いつもその人の近くにいて、とりあえずそれに掴(つかま)っていれば、溺れずに漂っていられるものが先ず何よりも必要になります。“一本の丸太”です。とりあえずそれにすがっていれば、それといっしょにいさえすれば、沈まずにはおれます。これが先ず何はさておき必要なものです。
親が、家族が実際の生活ではそうかも知れません。カウンセリングでは、広い意味でなく、狭い厳密な意味でのカウンセリングが、おそらくそれに当たると思います。その不安・恐怖・孤独感・やりきれない心細さをそのまま聴いてくれる、その気持ちのままに受けとめて共に流れ、漂ってくれる存在です。漂流する人そのものではないけれど、いつも一緒にいてくれる存在です。丸太がどんどん先を行ってしまっては困ります。丸太にはエンジンもナビゲーションといった機能もありません。ただ、共にいて、共に漂ってくれる存在です。
「うかつに粗末な舟に乗ったからだ」「思い止どまるようあんなに忠告したのに、少しも聞かなかったからだ」といった批判も責めもしません。一番辛い時はそんなものは邪魔になります。かえって苛立(いらだ)たせ、元気を無くさせます。「可哀想に、可哀想に」と同情されれば、今度はますますみじめになって、「このまま沈んでしまおうか」という気になってしま
います。「元気出せ、元気出せ」と言われれば、うるさいだけ、耳障りなだけです。「気楽なことを言うなよ」ということになります。
助けるつもりで深刻な顔をした、体重もたっぷりある人が近づいてきて、その丸太につかまれば、今度は二人で一緒に沈んでしまいます。三、四人にもなれば「もう沢山だ。離れてくれ、一人にしておいてくれ」と必死に叫ばれるかも知れません。漂流の丸太はいつも一人分なのです。
大海原を当てもなく漂流している時、心細さ・孤独感・不安・恐怖のただ中にある時、もし一羽のカモメが飛んできて「陸の方向はあっちだよ、もう一日半ほどすれば必ず着くからね。気を確かに持って頑張ってね」とか、「向こうに漁船が見えているよ。もう3、4キロでそこへ着くから頑張ってね。ボクも一所懸命合図をしてみるからね」と言われれば、展望と共に勇気もわいてきます。ちゃんとした情報提供のおかげです、確かな展望が開ける安心感です。
丸太のようにそばに一緒にはいてくれませんが、離れた高い所にいるから、かえって冷静に客観的に大局を見ることができるのです。丸太のように溺れるのを今すぐ助けることは出来ませんが、離れて上空を飛びながら、時には離れ、時には近づきながら、声をかけることは出来ます。展望がひらければ、勇気もファイトも出てくるのです。もう一つの意味でのカウンセリングです。
丸太も必要ですし、カモメも必要です。丸太だけでも困りますし、カモメだけでも困ります。狭い意味のカウンセリングではこの丸太になりきることが求められます。先ず何よりもこれが厳密に求められます。ロジャーズ流カウンセリングはまさにそういったカウンセリングです。しかし、実際にはそれぞれの人がある具体的な状況を持っているわけですから、その状況をきちんと把握することが必要で、それはカモメの役目ということになります。その両方がないと広い意味での充分なカウンセリングは成立しないと思います。
カウンセラーはその狭い意味のカウンセリングと、時に広い意味のカウンセリングの両方を求められますが、とにかく狭い意味のカウンセリングがしっかり出来ていないと基本のところが支えられません。どんなに豊かに情報を提供しても、丸太がなければ溺れて沈んでしまいます。
先ず丸太になりきらねばならないのですが、仲々これが出来そうで出来ないのです。初心の人でぱっとそうなれる人もいれば、私たちのように何十年もやっていても、今でもおぼつかなく苦手の者もおります。「先ず丸太に、先ず丸太に」といつも念じているゆえんです。
家庭ではどういうことになるのでしょうか。「丸太になりきる」ということは、家庭では仲々難しいのです。関係が近すぎるのです。密着に近いことだってあり、だからこそ親子であり、家族だと思うのです。その近い関係こそ家族だと思います。一人が揺れれば皆が木の葉のように一緒に揺れてしまうのです。「静かに、丸太のように」というわけにはいかないのです。すぐにも近づいていって一緒に丸太にぶらさがりそうになるのです。親子だからです。家族だからです。
しかし、せめて時には自分でも意識して丸太になってみることはあっていいし、やはりそれはとても大事だし、その時ふっと見えなかったものが見えてきたり、揺れるご本人がかえってほっとしたり、和(なご)んだりするのです。
家族と言えども、親子と言えども心の深い部分の漂流については一人々々別なのだと思います。まったくの他人なのだと思います。人間は本来がひとりひとりなのだと思います。独りなのです。孤りなのです。「それでいいのだ」と思います。「そういうものなのだ」と思います。親鸞上人の「弥陀の誓願はひとえに親鸞ひとりのために・・・」(歎異抄・後注)にも深いところで通ずる、それぞれ「ひとりひとり」なのだと思います。
ただ、カモメになることも、丸太になることも仲々十分にはなりきれず、どうしても中途半端にはなりますが、時には意識して丸太になってみる、それに近づいてみる努力・訓練はしてみてもいいと思います。それを自分に課してみることはあっていいのだと思います。
丸太でなくて大きな船なら、ナビもいろいろな設備も整っている大きな船ならどうか。心の深い部分に関してはそのような船は無いのだと思います。同様にカモメではなくて、ヘリコプターならどうか、すぐにも縄ばしごを垂らして救助隊員が降りてきて、即救われる。一時間後には万全な設備の病院のベッドに安らかに横たわっている、それもないのだと思います。
心の深い部分のことについては、外部の強力な、効き目絶大の、即効あるものはないのです。そんなものがあれば、かえって危険なのだと思います。人間の尊厳を、その存在を軽薄・浅薄にしてしまう程に危険なのだと思います。しかし、そうだって、そうなるにしたって、そういったものが欲しいと切実に思ってしまうのも、また事実ですが。
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