大村洋一/NPO法人自然学校ふる里あったかとお理事

高校の校門の坂下まで車で二男を送っていくことが多い。車から降ろすと、彼は、とぼとぼと足取りも重く坂を登って行くように見える。
 二男は、地元ではある程度知られた進学校に通っている。他人から見れば順調な進路を歩んでいると思われているだろうし、不得意な教科があるにせよ、そこそこの成績も収めているので、親として喜ぶべきなのだと思う。
 しかし、二男の足取りは、はた目にも重そうに見えるのはなぜか、と考えてしまった。
 彼は、自分の思い描いたような毎日を過ごしているのだろうか。将来のためとはいえ、進学校では毎日、絞りに絞られる。今という時間を、こんなふうに過ごしていいものだろうか?
 翻って、私の長男と三男は、ある時期、不登校だった。すでに本欄で触れたが、長男は3年、三男は1年半の間、学校に通わなかった。その期間の彼らは「自分に正直に生きていたか」と聞けば、「間違いなくそうだ」と答えるだろう。
 学校という、彼らなりの社会を拒み、多くの圧力も感じただろうけれど、自分の判断であえて学校に行かないことを選んだ。私には、そう思えた。
 その決断には、今の私から見れば、すごいものを感じた。もし、私が彼らと同じ年ごろだったとしても、とてもそんな判断はできない。学校がどんなに嫌なところでも、自分の気持ちを誤魔化してでも、学校に行っていただろうと思う。
 私が、不登校の生徒らとかかわるようになって気付いたが、不登校を経験した者の多くは、その不登校を乗り越えた時、その時間はまったく無駄ではなかったと言う。
 では、順調に周囲の期待に沿った進路を歩んでいる子どもたちは、どんな思いでいるのかと、気になる。
 不登校の子ども達と比べて、今という時間を自分に正直に生きているのだろうか?
 不登校になることは、決して勧められるようなものではない。しかし、こんな比較を、つい、してしまうのだ。

読売新聞長野版 平成18年5月3日