北澤 康吉/ロジャース流カウンセラー

月刊のぞみ 1994年12月号より



少し古い文章ですが、登校拒否について今一度考え直してみたいと思い、掲載しました


愛知県西尾市の中学生大河内清輝君の自殺。新聞もテレビも連日しきりに取り上げています。イジメ。日常的で際限もなく深まるイジメ。イジメによる、あるいは集団暴行による、あるいはその他による子どもたちの、若者たちの何とも理不尽な死。この数年だけでもどのくらいの数になるのでしょうか。

 清輝君のお母さんの言葉。「イジメを受けている子どもは、むしろ登校拒否をするほうがいい」。
 登校拒否は今のところこういう場合の一番安全な、最も賢い対応なのだと思います。必要があって、それものっぴきならぬ必要があって起きる。ぎりぎりの「安全のための反応」なのです。心の安全ということでも、身体の安全ということでも。

 カタツムリのことをよく思い浮かべるのです。カタツムリは危険を感ずれば殻の中にもぐりこみます。危険が去り、完全に安全な状況になるまで、殻から出てきません。これがカタツムリにとって安全な賢い反応なのです。対処なのです。
 引っ込むときは彼なりにさっと、出てくる時は用心深く、確認するように「角出し、やり出し、目玉出し」といった感じで、一つづつゆっくりと。
 カタツムリを殻から出そうという努力がいろんな形でなされます。いろいろのカウンセリング、心理療法、訓練、忠告、激励、叱責。別の場面ではそれぞれ意味をもつ大事なことでしょうが、籠ったカタツムリを引き出そう、出てもらおうという方向性・価値基準を伴ったものならば、却ってそれは有害です。カウンセリング、心理療法といったものは、とりわけ専門的で大きな意味を持つものですが、例えばロージャーズ流カウンセリングはその大きな基本の所に「こちらの価値観、方向性を押しつけない」という点があります。
 「ああさせよう」「こうしてもらおう」はないのです。学校に行かせるカウンセリングがあるとしたら、スタートからカウンセリングは成立しないのです。もしそんなことになったら、「夫婦仲良くさせるためのカウンセリング」「離婚させるためのカウンセリング」「こっちを向かせるためのカウンセリング」「心離れさせるためのカウンセリング」等怪しげなものがいっぱい出てきて、そのどれもが成立することになります。カタツムリを、人間を操作することはできないし、してはならないのです。

 私もカウンセラーの端くれですが、カウンセリングはとても大事なものと思っておりますが、それは「行かせよう」という方向性を本来持ったものではなく、「そのままの姿を安心して受け入れる自分になる」ためのお手伝いをすることだと思っております。「行く行かぬ」といった方向は本来本人に委ねるものなのです。

 籠ったカタツムリが出てくる唯一の条件は、「安心と安全の雰囲気、状況にする」ことだけなのです。どんな善意からでも、殻から出そうとするのは危険です。ましてその善意が一生懸命で、迫力をもってくれば、これはコワサを感じます。

 今の学校は心理的にも身体的にも安全でない部分がずっと増えてきたのです。それはかつての親や祖父母が経験しなかったほどの質と量なのです。「我慢」とか「耐性」といったレベルの問題ではないのです。そのストレスが、疲れが心身症とか強迫神経症とか言われる形で現れるほど、ことは深刻に先鋭化されているのです。

 学校が責められ、校長が、教師が矢面に立たされております。テレビのコメンテイターが、司会が厳しく、怒りもあらわに責め立てております。教師の質が論じられています。「今の先生は・・・校長は・・・」。そういう部分もあるかも知れません。しかしそこだけに目がいき、そこだけ矮小化されれば、ことは見えなくなり、、1~2週間もすれば再びそのまま日本中が、事は全く未解決のまま沈静化してしまうのです。

 教師の質、校長の質の問題ではないのです。たまたま僕自身が長く教師をしてきましたから、同僚で、先輩で尊敬できる人を身近にいっぱい見てきました。その方々が個人で、グループで、団体でいろいろ努力されているのをこの目で見て知っているのです。

 しかし、そんなことに関係なく、その人たちの努力も抗しがたいほどの勢いで、もうどんどんと、大小いろいろなことが起きてくる。どこから手をつけていいのか何から始めたらよいのか見当もつかないほどに。中にはそんな虚しい努力の中で半ばお手上げ、諦めの状態になる人たちだっているかもしれません。
 もっと元のところから何とかしなければ。

 先鋭化された受験地獄。何のための勉強かを問うひま、考えるひまを与えない毎日の学校の動き。これだけはするようにという盛沢山の山から押し付けられた中身。輪切り。一流指向とその反対の極のはみ出し。職員も生徒も含めていよいよ徹底されてきた管理体制。いつの間にかすっかり出来上がった国家管理、国家統制。

 そして子どもの遊びにまですっかり入りこんで、すでに我がもの顔の王国を築き上げた商業主義。金が全ての世の中。遊びも勉強もすべて営利のベルトコンベアの上。「子どもたちが」「教師が」の問題ではないのです。日本全体が病んでいる姿が、たまたま子どもに、学校に反映されているだけなのです。金銭の要求の額が100万を越えていたのがそのいい例です。

 どうすればよいのかということは、はっきりしているのです。そこのところを大幅に、根本的に直ちに変えられればそれが一番いいのですが、とりあえず大幅修正は急いでしなければならないのです。
 先生たちは尻たたき、叱咤激励して済むことではないのです。ある意味では大人全員が同罪なのです。日本にいる一人一人が、ひょっとすると子どもまでも含めて。
 登校拒否は日本特有の現象であったのも、この頃お隣の韓国でも始まったというのも、きわめて象徴的です。それは大事な何かをはっきり語っているのです。

 今は残念ながらかなりの数の諸君が、学校という場の中で「身の危険」「心の危険」を感じて、殻にもぐろうとしている状況なのです。それが今は少なくともその諸君たちにとっては「安全」なのです。学校の状況を変えずに、そこに出させようとすることは、それがたとえ善意からのものであっても危険なのです。

 「危険を感じたら登校拒否をする。」あまりに端的過ぎて、暴言のようにさえ見えますが、今はそれが一番賢い、緊急性のある、必須の反応だと思います。ただそれをその時期が判断できるかどうか。適切に時を失せずにそれをできるかどうか。多分親だけでは難しいのではないでしょうか。そしてその判断を共にその場にいて手伝うのは、やはり身近かにいる担任やそれを囲む先生方ではないでしょうか。

 学校の側、先生の側からすれば、それは一見自分の仕事を放棄し、学校を否定するかのように見えるかもしれません。しかし差し当たって「今はそれでいいのだ」と思います。学校が火事になれば、それがどんな大事な学校であっても、教師は生徒を安全な外に逃がすことを先んずるでしょう。もう消すのが不可能ならば、先ず生徒の生命を安全な場所へ誘導するでしょう。現在は少なくともかなり諸君にとって学校は火事の真っ最中なのです。燃え盛って危険極まりない状態なのです。まず生命が何とかなれば、あとはまた何とかなるのです。

 登校拒否はどこまでも「安全の反応」なのです。そこに付き合える親に、教師になれるかどうかは、どこまで先入観なしに、固い常識いとらわれずに現実を見られるかどうかにかかっております。その親の、教師の“実力”の問題になってくるのです。親と教師の、資格をかけた実力が問われているのだと思います。

 繰り返しますが、登校拒否は「安全の反応」です。それがイジメのようにはっきり外に現れる肉体的危険を伴うものであれ、目に見えない精神的、心理的危険であれ、「ぎりぎりの危険」ということでは同じなのです。
 それに適切に対応できる、やわらかい感覚の、正確に感じ取れて、しかもやさしい親や先生が本人の周りにいるかどうかだけなのです。
 それにしても、もう一つ気になりことがありました。そのイジメをした諸君はそのまま登校しているのですね。給食の時間に今度は別の誰かのプリンか何かをぐちゃぐちゃにしたとか。学校のどんな事情で、どんな判断で引き続き登校させているのでしょうか。しかも同じ教室にそのままで。
 未成年は「罰するより指導で」ということは基本にあると思います。「これから未来にかけての者たち」ということで、とりわけ人権も尊重されなければならないと思います。
 しかしそれにしても、その同じことが清輝君にもなされなければならないわけですから。清輝君の未来も人権も同じように尊重されなければなりませんから。

 昨日は、小春日和。一転して今日は静かな時雨。自然はそれぞれに味わいがあり、しかも冬の後には必ず春が来ます。
 それにつけても子どもたちの、若者たちの四季はどうなっているのでしょうか。このまま何十年と冬が続くのでしょうか。・・・そんなことをさせるわけにはいきません。

 私たちも同じ「ノアの方舟」に乗っているのですから。