大村洋一/NPO法人自然学校ふる里あったかとお理事

 小学6年で不登校状態だった三男が、学校の授業以外の特別な行事だけはなんとか出席していた時のことである。
 いっしょに活動していた同級生から何気なく「Oちゃんはこういう楽しい時だけ来てずるい!」と言われたそうだ。
 それを聞いた彼は、その後一層学校に行けなくなってしまったそうである。私はそれを聞いて、学校という教育現場における問題の根の深さを感じた。
 その同級生の思いは、「日々の授業は辛い。行事の準備もやりたいわけではなく、言われているのでやっている」というものである。そんな気持ちから「辛い授業の時は休んでいるのに『楽しい』時にだけ来るのはずるい」という発言になったのだと思った。
 学校での学びは楽しくないということを、同級生は別の言葉で表現したのだと思った。こういった思いを持つ子らがどれほどいるのだろうか。
 多くの子どもたちは今、「毎日の学校生活はこんなに楽しいから出ておいでよ」と言えるのだろうかと私は不安に感じている。
 さて近ごろ、全国の高校で世界史などの未履修問題が持ちあがっている。その中で、「必修科目の未履修の高校と履修済みの高校との間で不公平感があってはならない。必ず受けさせるべきである」との意見が文部科学省を中心に交わされている。
 しかし、履修すること、つまり「学ぶ」ということ自体に公平・不公平ということがあるのだろうか。私はないと思う。この場合、学びの不公平感を考えるならば、世界史を高校側が必修科目にしなかったために、高校で学ぶ機会を逃したのも不公平である。
こういった意見はなぜどこからも聞かれないのか。必要な学びであるからこそ学習指導要領で必修科目にしたにもかかわらずである。学びを受ける側の考え方次第ではないだろうか。
 履修済みの高校から不公平だとの声が上がるということは、未履修の高校の生徒も必修科目を受けるハンディを同様に背負わなければならないと望んでいるように思えてならない。「履修=学び」ではなく「履修=ハンディ」なのであろうか?
ここにも「学び」は辛いものであるという考えが根本にあると思う。
 フランス文学者のルイ・アラゴンが述べた「教えることは希望を語ることであり、学ぶことは誠実を胸に刻むことである」との言葉を、もう一度じっくりと考えたいものだ。

平成18年11月1日付け
読売新聞長野版コラム「きょういくエッセイ」より